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02-Jan-2013

文   章            (73)
  
 車を運転していて、街角で友人を見かけ、 ”乗っていかないかい?”・・・と声をかけたら ”いや、今日は急いでいるから歩いていくよ”と言われたという笑い話がある。話はちょと変わるが、パスカルは「今日は忙しいので、短い手紙は書けないがーーー」と冒頭に断って手紙を書いたそうだ。
「文章とは、アメのごときものなり・・・」といったのは、確か夏目漱石だったか、伸ばそうと思えばいくらでも伸びる・・・というのである。

 確かに、何かを書く時、書きたいことをそのまゝ書いていくと大抵は制限字数をオーバーする。
 中研、片山所長の随筆に「ぎりぎり一杯に、自ら自分を追い詰められる人は天才だ」とあったが、文章も同じで、一度書いたものを、削ってもいゝところはないか、無駄なところは・・・と、ぎりぎりまで削っていって、やっと予定の字数にはまったものは。前よりもずっとよくなっているものである。

 いってみれば、文章と言うものは、漱石ではないが、飴細工みたいなもので、くっつけていけば、いくらでもつけ足しがきくし、逆に削ろうと思えばいくらでも削れる。要は自分の創り上げようと思う塑像をどう仕上げるか・・・だが、大抵の場合、出来上がった塑像は足りない部分があって出来が悪いのではなく、まだ余計なゼイ肉があっちこっちについているという事だろう。

 女性の像を造るのに、ミルクタンクとガスタンクを強調するつもりで盛り上げて行ったら、つながりのウエストまで太くなって、B・W・Hがずんどうになってしまったような、そんな文章にならないように、B・Hを大きくするためには、もったいなくてもWの部分を削らなければならない。

 毎日新聞の益田という女性記者が、自分を含めた女性の文章について、「ー
まだ水がしぼれる程度にぐずぐずの状態ーーー」。「すし屋の職人さんが、握ったすしと、素人が見よう見まねで握ったすしの違いーーー」という表現を使っていたが、女性に限らず考えなければならないことではないか。

 先日、飲み仲間と例の「蜂の喧嘩(さしつさされつ)」で話し合ったことーーー例によって終わりの方は混沌として定かではないが、思い出すまゝに ” ”文章”についてのくだりを二~三・・・。

        (H・U氏)
「よく書いてしまいやすいんだが「・・・したいものだ」という表現をする場合,一見、生産的なようだが実は非生産的というか無産的表現で終わってしまっている場合が多い。これは、提案に具体性が欠けているからだ」

        (K・I氏)
「漠然とでもいい,書こうと思うことが決まったら、初めの一行(書き出し)をよく考える・・・直感のこともあるが、初めの一行を書いたら、絶対にそれを消さない。・・・という心構えが大事じゃないか。書き続けていって、その結果が駄目なら駄目でもいゝや、という開き直りがあるけれど・・・。最初の一行の感覚が勿体ないから、しゃにむにつなげていくと言う感じ・・・」。

        (K・T氏)
「最後を書きすぎるな。放りだして、あとは勝手にせよ」調が好きだ。それと、「最後の一行で余韻を残したい。最後に来て理屈を言わないほうがよい」

        (S・Y氏)
「書く前にあれこれ考えるより、書いていくうち、一本の糸をよじっていくような、トンボのしっぽを追いかけていくようなーーーそんな書き方が自分は好きだ」。

        (M・i氏)
「文を書くという事は、日記・メモ以外は必ず人に読んでもらうために書くということ。だから、読む人が、読みながら途中で息が切れるような長いフレーズはいけない。読む調子、言い換えれば人がしゃべるのに調子があるように、読む方にもリズムがある。書く時はその読み手のリズムを意識して書く必要がある」。

        (S・Y氏)
「文章は、入り口と出口で決まる。とくにフィニッシュの一行を大事にしたい。体操で言えば着地だ。着地がよければすべてが引き締まる。とにかく最後の一行の光かただーー」。
(75S・50・10)(根岸製油所)