グリーンケミストリーにおける物性推算

日本化学会・ケモインフォマティクス部会へ、2001年に投稿した。
最近(2023.7.19)同じフロン代替物を対象に「物性推算」を「機械学習」に変更したものを書こうとしている。

発表資料のPDF

先日新聞を読んでいると「カーエアコン1台分のフロンの温室効果は車が27000km走った分のCO2に匹敵する」とあった。

 グリーンケミストリーとは「環境にやさしいものづくりの化学」である。それと物性推算がどう関係するのか疑問をもたれる方も多いと思う。事実、グリーンケミストリーをインターネット1で検索してみると、「グリーン」+「ケミストリー」で325件ある。しかし、それに「推算」を加えると2件になってしまう。「推算」ではなく「計算」にしても77件しかない。それを英語で「Green」+「Chemistry」で検索すると306000件、「estimation」を加えると8860件と日本語での検索にくらべ、どちらも1000倍の情報がネット上に存在する。グリーンケミストリーに物性推算はどう使われているのだろうか?

 筆者は1995年1月から1999年5月まで地球環境産業技術研究機構(RITE)に出向し、つくばの経済産業省 産業技術総合研究所 物質工学工業技術研究所(当時は通商産業省 工業技術院 物質工学工業技術研究所)にてフロン代替化合物の開発に携わった。フロンは分子中にフッ素や塩素を含む化合物の総称で主に冷媒、発泡剤、洗浄剤に用いられてきた。このフロン中の塩素原子がオゾン層を破壊することがローランド博士らによって1974年に指摘されCFC(クロロ・フルオロ・カーボン)は1996年全廃された。また、分子中に水素を持つHCFCはその大気寿命が短いためオゾン破壊係数は小さくなるが2015年には全廃される。いわゆる代替フロンと呼ばれる分子中に塩素を含まないHFCはオゾン破壊係数は0だが地球温暖化係数が炭酸ガスの1万倍を超えるものもある。フロン自体は毒性もなく、燃えない非常に”良い”化学物質であったが地球環境に破滅的な影響を与えうる事が明かとなった。グリーンケミストリーはこうした反省を踏まえ、できあがった製品が環境にやさしく、製品を作るプロセスが環境にやさしく、製品の後始末が環境にやさしいの3点を目指した化学であると言える。本稿ではグリーンケミストリーにおける物性推算の役割を主にフロン代替の開発を例に紹介したいと思う(2a-2c)

 オゾン層を破壊しない事、地球温暖化係数の小さい事という環境にやさしいフロンの開発に対し、塩素の代わりに酸素などのヘテロ原子が入った化合物が候補にあげられた。こうした構造をコンピュータを使ってすべて書き出してみると、フッ素を含有する鎖状のエーテル化合物で炭素数が6以下のものは19056化合物存在する。同じくケトン化合物は2752化合物存在する。環状になったり複数官能基を持つ物を考えると飛躍的に化合物数は増える。こうした化合物を実際に合成しその物性をすべて測定する事は不可能だし意味がない。そこで、実際に化合物を合成する前にその物性値を推算して目標値に合っているものをスクリーニングする。そして可能性の高いものから実際に合成するという戦略がたてられた。

 フロンは用途ごとに要求される沸点範囲が異なる。冷媒なら沸点が20℃以下、洗浄剤なら沸点が40℃以上100℃以下、発泡剤で室温から60℃以下である。例え環境にやさしいフロンの分子設計ができても、沸点範囲が大きく外れる場合にはその用途には使えない。沸点の推算には原子団寄与法、トポロジカル・インデックス法、ニューラルネットワーク(NN)法などが用いられている。

原子団寄与法とは分子をそれを構成する原子団に分割し原子団ごとの物性に対する寄与率を求めておき、原子団の数 * 寄与率の総和を物性値とする方法である。最も著名な推算法はJOBACK法3である。この方法をフロン類に適用したところ相関係数0.65552,平均誤差85.3Kであった。推算精度が低いのはJOBACK法で定義された原子団のうちハロゲン原子に関する原子団はF,Cl,Br,Iの4種類しかなくフッ素の付く位置が違う異性体を区別できないためである。そこでJOBACK法の原子団を拡張4すると相関係数0.97755、平均誤差8.16Kで沸点を推算することが可能となった。

トポロジカル・インデックス法5は分子の大きさ(炭素数)、枝別れの数などから沸点を推算する。例えば直鎖化合物でメタン(N=1)からデカン(N=10)までの沸点は

Bp=745.42*log(N+4.4)-416.31

と表すことができる。こうした関係をトポロジカル・インデックスなどを使ってさらに複雑な化合物にまで拡張している。この方法は化合物の構造をデータベースから検索するなどの技術にも関連し発展している。しかしこうした方法をハロゲン化合物に応用した例は不勉強なのか知らない。おそらくハロゲン原子が入るとトポロジーがものすごく複雑になり適応できないのではないかと思う。

ニューラルネットワーク(NN)法は人間の脳の記憶、認識、判断の機構をコンピュータ上に実現したもので最近注目を集めている。筆者が知るニューラルネットワークを使って沸点を推算した一番古い例は第18回情報化学討論会(1995)でのJICSTの水野らの発表である。他のニューラルネットワーク法を用いた沸点の推算では、分子の表面積、部分電荷等をニューラルネットワークに入力する方法6a-6gなどがとられている。これらの解析のほとんどは誤差逆伝播法を用いた階層型(3層)ニューラルネットワークである。

筆者が構築したニューラルネットワーク4では相関係数0.99685、平均誤差3.51K、最大誤差15.02Kでハロゲン化合物の沸点を推算することができた。

臨界温度、臨界圧力、臨界体積の臨界定数の推算に関しては原子団寄与法3NN法4,6b,6h,7モンテカルロ法(MC法)8などが知られている。

沸点、臨界定数が判ると対応状態原理を用いる事によって様々な物性値が推算できる。

対応状態原理とは、ある状態 T,P,Vにおける物性値を化合物の臨界温度(Tc)、臨界圧力(Pc)、臨界体積(Vc)を用いて無次元化すると、還元温度(Tr=T/Tc)、還元圧力(Pr=P/Pc)、還元体積(Vr=V/Vc)で表される物性値は化合物の種類によらなくなるという方法である。例えばPV=RTという理想気体の法則で体積が1の容器にある化合物Aを1mol入れる。ある温度Tのとき圧力Paは簡単に求まる。しかし違う沸点(蒸気圧)の化合物Bを入れた時の圧力PbはPaとは異なる。これを還元温度、還元圧力で表せば、あるTrの時の化合物Aの圧力Pra(=Pa/Pca)は化合物Bの圧力Prb(=Pb/Pcb)と等しくなる。この原理を使うと物性値は化合物の種類にはよらなくなる。(極性物質では補正項が必要になることもある)

この対応状態原理3を用いた物性推算法には

液体密度の推算方法: Gunn-Yamada 法、Yen-Woods 法、Chueh-Prausnitz 法
蒸発潜熱の推算式: Giacalone 式、Riedel 式、Chen 式、Vetere 式、Pitzer-Carruth-Kobayashi式
表面張力σの推算法: Brock-Bird式
液体粘度の推算法には: Letsou-Stiel式
液体熱伝導率の推算法には: Sato-Riedel式
などが知られている。これらの式はハロゲン化合物には適さないものもあるが、通常の炭化水素化合物に対してはそれなりに使えるようである。

筆者はこうした物性値に関してもNN法を用いた推算式4,9を構築した。

 このようにして主だった物性値の推算方法が確立すると例えば洗浄剤として用いられていたフロン-113と同等の物性値を持つ化合物のスクリーニング4が可能と成る。沸点表面張力SP値がフロン-113に近いクロロフロオロカーボン(CFC)は17化合物見つかり、その中には、現在フロン-113の代替として用いられているHCFC-225cbも含まれていた。さらに含酸素化合物なども多数見い出された。

また、冷媒として用いる場合にもこれらの推算値が得られるとその冷媒の冷凍効率まで推算するTHEDYNAというシステムがRITE、新規冷媒等プロジェクト室と物質工学工業技術研究所の間で開発が進められている。

発泡剤として用いる場合にはその熱伝導率が問題となる。熱伝導率は原子団寄与法3、対応状態原理3、NN法9などでも推算されるが、モレキュラーダイナミクス(MD)法10を用いた推算もなされている。

このスクリーニングする際、洗浄剤、発泡剤、冷媒に共通して問題になってくるのが溶解度の問題である。洗浄剤は松やになどを溶かすか?発泡剤はポリウレタンやその原料との溶解性は?冷媒はコンプレッサー油の溶解性は?である。溶解度はSmallの原子団寄与法11(官能基ごとの凝集エネルギー密度とモル容積)を使ったSolubility Parameter(SP値)が一つの指標になるが、これで合うのは7割程度とされており様々な改良12がなされている。水に対する溶解性6i-6m水/オクタノール分配比率6n、無限希釈活量係数6oの推算がNN法などを用いてなされている。

 次に合成する化合物が絞り込まれると、また、様々な物性推算が必要になる。例えばある反応は発熱反応なのか吸熱反応なのか?発熱量はどのくらいでそれを除熱するのにどのくらいの冷却能力が必要なのか?その粘度は6p?反応を無溶剤化した場合、水系に変えた場合、その溶解度は?反応速度は?できたものを分離する時に副反応生成物の沸点は?蒸留塔の段数は?抽出の溶媒は?等々である。生成熱、Gibbsエネルギー、生成エントロピーの算出に関しては古くは原子団寄与法3による推算であったが、最近は分子軌道計算によっても比較的簡便に精度よく計算できるようになった。

  実際に化合物が合成されると必要になるのが分析である。NMR、IR、MASS、ガスクロマトグラフィーなどの分析がなされているが、これらのケミカルシフト6q,6r,13 IRピーク位置6s,リテンションタイム6tの推算もNN法などを用いてなされている。

 フロンは可能な限りクローズドなシステムで用いるべきであるが、同時に大気にもれた場合の影響評価もすませておく必要がある。その際にも様々な物性推算が必要になる。例えば水に対する溶解度、これは雨にどの程度溶けて地表に戻ってくるかの指標となる。OHラジカルとの反応速度の推算、これは大気中に大量に存在するOHラジカルによってフロンが分解されるのだが、その分解速度、すなわち大気寿命の推算につながる。赤外吸収スペクトルの予測、これは赤外吸収と大気寿命から地球温暖化係数を計算するので非常に重要な物性値となる。この、OHラジカルの反応性に関しても様々な物性推算が利用されている。分子軌道法によるものとしてはハロゲン化合物とOHラジカルとの反応速度をその遷移状態を求めることによって予測する研究が物質工学工業技術研究所の杉江、内丸14らによって進められている。アメリカ、JPL(Jet Propulsion Laboratory)のDeMore博士らはOHラジカルとの反応速度をC-H結合のBDE(Bond dissociation energy)と相関15したり、G-value法16という原子団寄与法にさらに遠距離の効果を取り込んだ推算法を開発している。また、カルフォニア大学のAtkinson教授らはハロゲン化合物に限らず広範な化合物のOHラジカルとの反応速度を原子団寄与法17によって推算している。赤外吸収スペクトルの予測にはNN法を用いたもの18、分子軌道計算を用いたもの16、分子軌道計算の結果をNN法を用いて補正6sしたものが知られている。

地球環境だけでなく人体に対する影響も考慮に入れなければならない。

毒性、水に対する溶解性水/オクタノール分配比率、生物分解性、燃焼性6uなどの推算が重要である。例えば、水/オクタノール分配比率は親水性と親油性の比率を示す物性値だが薬や毒物の体内への吸収と相関がある。現在の技術では毒性(薬効)推算はまだまだ難しいが物質工学工業技術研究所の田辺、松本ら19によって精力的に研究が行われている。

 以上簡単に新規なフロン代替化合物を設計する時に用いた物性推算法を紹介したが、それはフロン類に限らず、例えばある環境ホルモンがどのくらいの蒸気圧を持ち、水に対する溶解度がどのくらいかとか、ポリ塩化ビニルに相溶する可塑剤で環境毒性のないものはどう設計できるかとか、界面活性剤問題、ダイオキシン問題など広い範囲で応用が可能である。

 こうした物性推算が進歩してくると冒頭の「カーエアコン1台分の新規フロン代替化合物」はどのくらいの環境影響なのかを実際にモノを作る前から見積もる事ができるようになるが、これには情報化学のさらなる発展が必要である。

参考文献

1) http://www.google.com/ 2001.1.25
2) 乙竹ほか 化学工学論文集 a) 第13巻、第5号 710-713 (1987)   b)第12巻 第5号 542-549 (1986)c)  第14巻、第1号  32-37 (1988)
3)  Robert C. Reid, John M. Prausnitz,and Bruce E. Poling, The Properties of GASES & LIQUIDS Fourth Edition   McGRAW-HILL INTERNATIONAL EDITION
4) 山本 博志、 JCPE Journal, 11, 65-76 (1999)
5) 朝倉化学講座5 構造と物性 細矢治夫、円山有成
6) J. Chem. Inf. Comput. Sci.
a) 33, 616-625 (1993) 沸点 b) 34, 947-956 (1994) 沸点、臨界温度            
c) 34, 1118-1121 (1994) 沸点         d) 37, 1146-1151 (1997) 沸点、密度、屈折率           
e) 38, 28-41 (1998) 沸点      f) 38, 158-164 (1998) 沸点
g) 39, 491-507 (1999) 沸点、引火点             h) 38, 639-645 (1998) 臨界温度、臨界力
i) 36, 100-107 (1996)  水に対する溶解度     j) 38, 1-7 (1998) 水に対する溶解度
k) 38, 283-292 (1998)  水に対する溶解度    l) 38, 489-496 (1998) 水に対する溶解度
m) 38, 720-725 (1998)  水に対する溶解度, 蒸気圧 n) 37, 615-621 (1997) logP
o) 38, 200-209 (1998) 無限希釈      p) 37, 1122-1128 (1997) 粘度             
q) 36, 58-64 (1996) C13NMR                          r) 37, 587-598 (1997)  C13NMR     
s) 38, 483-488(1998)IR PM3補正     t) 39, 59-67(1999) GCリテンション    
u) 37, 538-547(1997) 燃焼
7) Ohe S., Sekiyu Gakkaishi, 35, 107-110 (1992)
8) Fluid Phase Equilibria 104, 349-361(1995)
9) 山本 博志、旭硝子研究報告、49, 53-72 (1999)
10) 原子・分子モデルを用いる数値シミュレーション 日本機械学会編 コロナ社 P182
11) P.A. Small  J. Appl. Chem. 3,71(1953)
12) 沖津 俊直, 日本接着学会誌,  29, 204-211(1993)
13) Analytica Chimica Acta 321,127-135 (1996)  
14) 2000年 計算化学討論会予稿集 P12
15) K-J.Hsu and W. B. DeMore、J. Phys. Chem., 99, 11141-11146 (1995)
16) International Symposium on Environmental Impacts of Advanced Alternatives to CFCs
17) Roger Atkinson、Atomospheric Enviroment  29, 1685-1695 (1995)
18) 松本高利ほか、化学とソフトウエア、21,  3-10 (1999)
19) http://www.aist.go.jp/NIMC/recent/r99-03-01.html

やまもと ひろし Yamamoto, Hiroshi
 ニューラルネットワーク、遺伝的アルゴリズムを使った物性推算から入って、最近は人工知能、人工生命へ惹かれつつあります。マックとPalmのプログラミングが趣味です。