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02-Jan-2013

変   化           (17)
        
         (喪  服)
 ある奥さんがこんなことを話してくれた。
 「お嫁入りする時、母が嫁入り支度の中に喪服を準備するというのです。私は “一生に何度着るか判らない、そんなものに高いお金をかけてくれるのなら、その分は現金で貰ったほうがいゝ”と駄々をこねました}。

 「そしたら母が、”世の中なんて、そんなものじゃない。もし、どんな貧乏をしていても、まさかの時にちゃんとしているかどうか、ということがその人の、或いはその人の主人の格を決める事があるものだ。どうしても不承知と言うのなら、私が死んだ時に私の葬式に着てもらうために、私が作ってやるのだから、黙って持って行きなさい”といわれました。」

 「先日PTAの幹事さんから、娘のクラスの友人のお母さんが急逝されたので、明日の葬式に参列してください、という電話がありました。嫁いで十数年経ったその時になって、初めて私は母のあの時の気持ちが判ったのです。
 若気のいたりとはいゝながら ”お金のほうがいゝ”などと生意気な事を言って困らせた母に ”有難う”とお詫びを言おうにも、もうその母はいないんです」。
       
          (生  死)
 つい先だって定年退職された横製・保安のKさんが、戦時中ガダルカナルで苦闘されたときの追憶記を読ませて頂いた。戦争という特異な状況下で、しかも軍人という立場の中で、一個の人間が生死の境を彷徨した青春時代の記録。原稿用紙に達筆の楷書で書かれた、厚さ六~七センチはあろうかという膨大なものである。

 その中に、人間の「生」と「死」とに対する感じ方について、次のような事が書いてあった。
 「充分食料もあり、心身ともに健やかな時には ”お国のために”という気持ちが常にあり、そのつもりで生死紙一重の戦闘に参加し ”いつ死んでもいい” という気持ちが充実していた。
 ところが、補給路を断たれ、日々の食糧に事欠き、そのうち餓死寸前の状態の幾日もが続いたとき、自分の頭の仲にあったただひとつの事は ”何とかして生きよう・・・見栄も外聞もなく,這いつくばっても、とにかく生きたい”という考えであった。」

 同じ人間に、どうしてこのような変化が起こったのか?むしろ、健康なときには ”何とかして生きたい”という気持ち。よれよれの廃人同様の姿になって前途に希望がなくなった時には、”いつ死んでもいゝ” ”早く死んで楽になりたい”という気持ちが湧いてきてもよいような気がするが、今考えてもあの極端な考え方の変化は不思議でならない」

          (写 真 機)
 ある有名な雑誌の編集者の述懐。
 「もう何十年も昔。中学校の入学試験の結果発表の朝、父親が ”お前、もし落ちていたらお前が前から欲しがっていた写真機を買ってやろう”といった。その言い方がいかにも ”ふと思いついた・・・”というような素振りを装っていたものゝ何となくぎこちなかった。その時自分は ”変な事を言うなあ。父は自分が落ちたらいゝな、と思っているのだろうか”という気がした。”
 その時の父の気持ちがしみじみ判ったのは、それから何十年も経って、今度は自分の子供が入学試験を受けるようになった時だった」。

 我々は、現在の自分が到達している境地が一番最高のもので正しいものだ、という前提ですべて他人のことを判断し評価しようとする。
 しかし考えてみると、これは全くおこがましい話で、人様の今のそのような気持ちが、どのような過去と経験の事実からそのようになったものかは、それこそ他人が評価できるものではないはずである。

 「花のみ 花の心を知る」という。
 人それぞれの悩み、気持ちというものは、他人が外から推しはかれるものではない。

(69・S・44・11)