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悲しき酒(片々草抜粋)

 

 

 

 

 

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02-Jan-2013

無   駄         (43)
  
 「一期一会」という。茶会を催すのに、一生のうちこの会ポッキリでもう後にも先にもチャンスはないんだ、と言う気持ちで茶会に臨む。ーーーその気持ちのことを言うのだそうだが、ふりかえってみると、どうも我々の生活は普段の惰性に流されて、そのようなぎりぎりの状態でものを観、考え、感じることがあまりにも少ないように思われる。

 世は泰平,、世上には物があふれている。例えばタバコを吸うとき、酒を飲むとき、この一本で後はない、この一杯が最期といった感じーーー ”これしかない” という気持ちを味合う機会が全くないのである。例えば、ピッチングの練習をするとき、九回ツウアウト満塁、2ストライク・3ボールといった精神状況での練習をしているだろうか。ゴルフのパットの練習をするとき、この一打が一千万円の勝敗の帰趨を決する、といった気持ちで球に向かっているだろうか?。
 ただ漫然と、数において練習し、その数で安心しているのではあるまいか。

 もっとも、そう考えてくると、今日のこの一日、今のこの時、そのものが、かけがえのないものであり、取り返しのきかないものであるということに思いを至すと、どうも、我々の命の炎は、無駄に燃焼している部分が大半なのかもしれないなあ。

         物 言 い           
  
 相撲を見ていてひとつフに落ちないことがある。二人の体がもつれあい、もんどり打ってほとんど同時に倒れる。腰をかがめ、這うようにして見ていた行司が、瞬間、東(西)に軍配を挙げる。
 これを見ていたアナウンサーが解説者に尋ねる。 ”軍配は東(西)に上がりましたが、00さんはどう思われんます?”、”そうですね、、今の場合どちらに上げても物言いがつく一番でしょうねえ”。・・・とここまではまあいい。

 案の定「物言い」。羽織・袴の検査役四人と行司が鳩首協議ーーー。席へ戻って審判長がマイクを取って観客に説明する。「ただいまの協議について申し上げます。行司はXX山の上手投げを有利と見て、東(西)に軍配を上げましたが、青房下の審判から ”同体ではないか”、と物言いがつき、協議の結果 ”同体”とみて、取り直しと決定いたしました」。

 どうもこの「同体ではないか」?、と物言いがつきーーーというところが、気に入らないのである。
 いったい、行司に「同体」というサバキの軍配が許されているのか。「同体ではないか」と物言をつけるのならば、当然行司が「同体」と判断したときは、東にも西にも軍配を上げない、真ん中・例えば自分の頭の上に軍配上げるサバキがあってもいゝと思うのだが如何なものか。
 一瞬の判定を東か西に無理やりに決定付けさせられ、その上で 「同体ではないか?」と文句をつけるのは、どうみても不合理だと思うのだが?。

         懇 ・ 墾           
  
 人間は感情の動物だというが、”好き” ”嫌い”という好みはどうしようもないもので、 ”坊主憎けりゃ袈裟まで憎い”というのに類したことは確かにある。  
 物事を善意に解釈するか、悪意に解釈するか、根本のコトは同じことであっても、出てくる結論は随分と異なるものである。

 だから、我々は職場に限らず、ふだんの生活の中で、お互いの心と心にベルトをかけ、人間関係上の信頼関係を作っておく必要がある。何か事が起こってから ”実はーーー”と改まってみても遅いので ”あの人が言うのならーーー”と少々の無理でもすんなり引き受けてくれるような状態を、日頃の接触の中で築いておく努力を怠ってはならない。

 いつか「懇談」という字を「墾談」とミスプリントしたのに出くわしたが、言ってみれば人間関係は「懇・墾」で日頃の生活の中で「ネンゴロにタガヤしておく」努力を忘れてはならない。

(73・S・48・4)