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悲しき酒(片々草抜粋)

 

 

 

 

 

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02-Jan-2013

 「今更、死をこわがることはない、人間生まれた時から死刑囚なのだ」といったのは誰だったか。ーーー本当に人間はいつ死ぬか判らないものだし、明日のいのちを誰が保障してくれるものでもない。そこのところを、わが敬愛する堀秀彦さんは「いつかは必ず死ぬ、という確実な死の期日、死の時間と、それにも拘らず今夜はまさか死なないだろう、と思いこんでいる生の時間とーーーこの二つの時間の観念の中で日々生きている」と述懐しておられるが、いずれにしても「死」とは人間一生の一大事。土筆生ごときが軽々に論ずべきことではあるまいが、まあ、そんな四角四面に構えないで、今月は古今の聖賢の言葉を引いて、「死」についての片々・・。

 「ゆく川の流れはたへずして、しかももとの水にはあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消へかつ結びて、久しく留まりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし・・・」とは、ご存知、鴨長明の方丈記の一節。
 
 (人生とはまあ客観的にみれば、川の水がしばし止まった淵に、ぽっかり浮いたり消えたりしている泡みたいなものーーーという意味だろうが、何とも奇麗な文でさらいと言い得て妙ーーー)。

 「住み果てぬ世に、みにくき姿を得て何かはせむ。命永らへば辱多し。長くとも四十に足らぬほどに死なむこそめやすかるべけれーーー」というのは兼好法師。
 
 (四十に足らぬほどとは,いくら何でも一寸遠慮しすぎだと思うが,六十八歳まで生きた兼好さんが一体幾つの時に書いた文なのだろう?)。

 「未ダ生ヲ知ラズ、イズクンゾ死ヲシランヤ」は、子曰くの論語。。 
    、    
(「死」についてはさすがの孔子様も曰く言い難しで ”生きるということが、まだよう判らへんのに、死ということが判るはずないやないか” とやゝやけくそ気味にケツをまくった感じーーー。

 次は雑誌に載っていた或るガン患者の言葉。
「あのね、生と死と世間はいうけれども、仏教では ”と”という接続詞は入れないんですよ。生死は紙の裏表で、生の延長線上に死がある訳ではない。死ぬべきものが生きているという感覚ーーー。だからね、はて死ぬことがいよいよ向こうに見えてきたぞ、という感覚ではない訳です。つまり生死一如・・」
 
(こうなると、本当に死と背中合わせに生きている人の切羽詰った感じ方だが、判るような気がすると言っては申し訳ないかーーー)。

 次はドイツ文学者、高橋義孝さんの一文。
 「ーーーそしてまた自分が生まれない以前の永劫の無と、自分が死んでしまった後に控えている永劫の無という、この二つの無の方がどうやら本当の  
”有”であって、人生という ”有”は実は単なる ”無”ではないかーーー」。
 
(こうなると、何か判らないまま宇宙の果てしない空間の闇の中に吸い込まれていくような感じーーー)。

 さて大分深刻になってきた。ここらで狂歌を二つ。

    昨日まで人のことかと思いしに
         おれが死ぬとはこれはたまらん  (蜀山人)

    つひにいく道とはかねて聞きしかど
         きのふけふとは思はざりしを   (藤原業平)

 (ふざけたふりをしながら、何とも諦めきれない、どうしようもない無念さが感じられますなあ)。

 花は散るために咲く、というけれども太平洋戦争中、学徒出陣で特攻隊の花と散った若い戦士の句・・・。
  
     散る桜 残る桜も 散る桜  

 (何とも壮絶でよむたびに胸が痛む)。。

 モンテニューは「死んでしまうのは嫌じゃない。死ぬのが嫌なんだ」と云い。アインシュタインは、死とは?、と尋ねられてしばし考え「・・・モーツアルトが聞けなくなることだ」と答えたと言う。どうも大哲学者の話はどれもはぐらかしくさいが、それだけやはり「死」とは難しいテーマなのだろう。

 さて最後に、いろんな人の最後の言葉を二~三・・・。

 ”大丈夫・・・”             今東光
 ”私は幸せなことに・・・”        佐藤春夫
 ”何もかもうんざりしちゃったよ・・・”  チャーチル
 ”オ・モ・イ・ガ・ノ・コ・ル・・・”  織田作之助三十五歳・結核吐血。

締めくくりは、親鸞上人
    明日ありと 思ふ心の あだ桜
        夜半に嵐の 吹かぬものかは

(82・S・57・9)