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02-Jan-2013

続 ・ あの頃のこと

 先月に引き続き、あの頃のこと・・・を書きとどめさせていただく。

 八月十五日・正午。「終戦の詔勅」放送のすぐ後,要塞司令部から憲兵の載ったトラックが回ってきた。「今の放送は、敵の謀略によるデマ放送であるから信用してはいかん。万一本土が降伏しても、九州だけは独立して戦うのだからそのつもりでいるように・・・」と勇ましいことだったが、そのうちうやむやになって、結局そのまま敗戦ーーー。
 長い長い「戦争」が終わった。日中戦争から数えれば八年。満州事変からだと十四年ーーー考えてみれば、生まれた時からずっと戦争である。

 生まれたばかりで、満州事変の記憶は全くないが、日中戦争は、もう小学生だったし、父が出征したこともあり「慰問袋」を作ったり、家の前で「千人針」をお願いしたりした。
 (千人針・・・一片の布に千人の女性が赤い糸でひと針づつ縫って、千個の
  縫い玉を作り、出征兵士に贈って武運を祈った)。
 毎日、毎日 ”わが大君に召されたる・・・たたえて送る一億の・・・”と万歳万歳で出征兵士を送り、 ”海ゆかばみずくかばね・・・大君のへにこそ死なめ・・・”と遺骨を迎える毎日だったが、まだこの戦争の時は泥沼の様相とはいえ、勝ち戦でもあり、世の中全体がどこかおっとりしていた。

 太平洋戦争に入ってからは、緒戦こそ華々しい進撃だったが、もう日本の国力が疲弊しきっていたこともあり、日に日に戦局が悪化していく中で、最後の三年ーーー中学生時代は、もう学生といえる生活ではなかった。
 毎日毎日三・八銃をかついだ軍事訓練。すべてのことが軍事優先で上級生に道であったら挙手の敬礼。通学はゲートルを巻いて仲間で列を作り兵隊さんに会ったら「歩調とれ、カシラ右!」といった調子。

 英語は敵性語だからと禁止。同級生に ”深堀譲冶”という名前の友達が居たが、配属将校(軍事訓練を指導するために、プロの将校が各学校に配属されていた)が点呼のとき「深堀!・・・お前の名前 ”ジョージ”というのは、英語の名前をもじっとる!。アメリカかぶれしとる。怪しからん!一歩前!」・・・。
 あまりの馬鹿馬鹿しさに誰かが笑ったら「お前達はたるんどる!。全体責任!。全員その場に正座!」と靴にゲートルのまま座らされサーベルでなぐられるといった毎日だった。

 空襲に備えて,頭巾・防火用水・火たたき・・・を準備させられたあたりまではまだまともだったが、敵が上陸してきた時のためにと、各戸ごとに竹ヤリを備え付け、訓練をさせられるようになったあたりからおかしくなってきた。
 ある日、学校で山ほどの竹を前に、”全員でこれを幅四~五センチ、長さ四~五十センチの短冊形にしてその両端を尖らせろ”という。最初は意味が分からなかったが ”敵の落下傘部隊は広い原っぱや砂浜に降りてくる。もし降下してきたら尻にささって怪我するように、これを適当な間隔で地面に刺しておくのだ・・・と馬鹿馬鹿しくて話にもならないようなことが、本当に真面目に指導されたのだった。

 こうした狂気の毎日も「敗戦」という形でピリオドをうち、八月三十日にはマッカーサーが厚木飛行場に降り立ち、長崎には、九月二十三日海兵隊が港から上陸。まずは迷彩服に自動小銃で武装した兵隊が街中を行進してデモンストレーション。
 そして、わが青春を二つに切り裂いて「戦後」が始まったのだった。

 ーーー今、あれから四十余年も経つと言うのに、あのころ歌った「学徒動員の歌」を無意識にふと口ずさんでいることがある。

      花もつぼみの 若桜
       五尺の命 ひっさげて
        国の大義に 殉ずるは
         われら学徒の 面目ぞ
          ああ紅の 血は燃ゆる

 吾が青春!。 嗚 呼。

  (89・H・元・11)