白 ・ 黒 (10)
砂浜に 波が打ち寄せる。
時に大きく、時に小さく、寄せては返し返しては寄せる。そして知らないうちに、砂浜が狭くなっていく・・・。
それが、同じ事の繰り返しのうちに、いつの間にか今度は引き潮になっていて、気がついたら砂浜が広くなっている。どの波までが上げ潮で、どの波からが引き潮なのかはわからない。
しかし、確実に、潮は満ち、そして引いていく・・・
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昼と夜の境はどこにある?。
夕方のなかの、どこからが昼でどこからが夜なのか?。或いは昼と夕方、夕方と夜ーーーの境はどこにある?。境目はないのに併し確実に夜はやってくる。
そこへいくと、昔の人は情緒があった。 ”たそがれ”というのは、 ”誰そ彼”(あそこに佇んでいるのは誰だろう)という、うすぼんやりした情景から生まれた言葉だという。
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はっきりした昼と夜の間に、ぼんやりした ”たそがれ”があるように、われわれの日常生活の中にも、判然としない、割り切れないものがあってもいゝのではなかろうか。
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それなのに、我々は、何でもかでも白でなければ黒,善でなければ悪、と割り切って、せっかちに決着をつけたがりすぎるのではないか。
勿論、進歩のためには究極を求める精神も大切な事ではある。併し、我々人間の生活の中では、三分の不合理をつく前に、とりあえず八分の合理を追求する努力の方がより大事なのではなかろうか。
子 供
自信を無くした時は、子供の寝顔を見ろ。何の不安もなく、安心しきって夢路を辿っている子供の寝顔を見ていると、どこからともなく、責任感とファイトが湧いてくるものである。
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又、子は親のものではない。親とは別の人格、生きものとして遇してやりたいと思う。この子の親だから、自分の好みや感情で勝手に扱ってよいものとは違うような気がする。
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又、子は親を選べない。この世に生をうけた時は意識もなく気がついたときには親なるものがいて、同じ家の中で暮らしている自分を見つけ出すだけである。
その親がどんなにくだらないものであっても ”俺はこの親の子では嫌だ”という選択はきかないのである。子供からみれば、こんなどうしようもない一方的な押し付けはあるまい。
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だから親たるもの・・・といえば説教っぽくなるが、せめて、 ”うちのおやじはーーー”と子供に尊敬される親になりたいと思う。
生 き る
飲んでいると、時計の針が早く回るのかなあ。気がついたらアシタになっていたということがある。改札口で駅員と交渉。終電が出てしまった後じゃどう交渉しても始まらない。
まゝよ・・・諦めて駅前広場に出る。屋台の立ち食いうどんの暖簾に頭を突っ込む。うまいーーー。
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屋台の後ろで、おくさんが七輪の火をおこしている。かたわらに、そう、年の頃なら三~四歳くらいの女の子。綿入れのちゃんちゃんこを着て、歩道の敷石の上を、両手を広げ飛行機の真似をして走り回りながら、意外と明るいカタコトでひとり言。 ”オキャクサマニハ ハイ トンガラシッテイウノネ” ”アリガトウゴザイマスモネ”ーーー木枯らしの吹く真夜中の話。
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夫婦で夜中の商売。幼児ひとりを家に置いて出るわけにもいかないのだろう。そしてこの子は生まれた時から、 “生活”とはこんなもんだと思い込んでいるのだろう。 ”生きる”ということは、大変なこと、こんな生活もあるんだなあ。
誓 い
新入社員に一言。「初心忘るべからず」という。何であれ、心に誓うだけは易いし、また入社の時には必ず何かを自ら誓うものである。
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然し、例えば 「出社は、少なくとも人よりも早く」というただひとつの事を、たんたんと定年まで続ける覚悟があるか。
誓いだけでは意味がない。
(69・S・44・4)