庭 (23)
十何年かアパートに住み、草花を植えるのに植木鉢を持って土を貰いに行くような生活から,老屋ながらささやかな庭のある家に住んだ。
固い仁丹くらいの何ということもない種を土に撒いてやっただけで、三日もすれば思い思いの芽がでてくる。
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真っ暗な土の中から確実に天に向かって伸びてくる双葉。ひと晩に数センチも伸びる蔓。まるで目があるように、傍らの棒をみつけて巻きながら伸びていく。
あたり前といってしまえばそれまでだが、誰が教えるでもない、誰が指導してくれるでもないのに、あの小さい乾いた種の中に秘められた 「いのち」生命力。
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教育について ”教えるものは、庭師である。木は自分で伸びるもの、庭師は枝振りを整えたり、肥料をやったり、日当たりをよくしてやったりして、生長の手助けをすることしかない。”という。
子供の教育について、我々は可愛さのあまり、子供を少しいじりすぎているのではあるまいか?。朝顔のツルにバラの花を咲かせようとしてはいないだろうか?。
親のためにではない、子ども自身のために、草花でも眺めながら頭を冷やす必要がありそうな気がする。
うぬぼれ
”二人のため 世界はあるの・・・”という歌がある。随分身勝手な文句だと思っていたが、確かに長い人生のうちには、地球が自分を中心に回っているんじゃないか、と思えることがある。
そういう時には、人生がはずんでいるのだから、すべてのものが生き生きとして少々の支障などは目にもとまらず、通りかかった猫にまで ”ヨーッ”と声をかけたくなったりする。
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ところが、逆にある日突然けつまずいたような倦怠感におそわれることがある。何が原因かは判らない。もう何もかもーーー仕事のことも、家のことも、子供のこともーーー自分に関係のあるすべてのことが煩わしくて、 ”えゝい面倒くさい”と一杯あおってもぐった床の中でまた目が冴えてモンモン。
こうなるとすべてが悪循環。翌日の生活も何もかもが灰色で、ふだんなら何でもないことまでが気になってくる。
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ある有名な映画監督が 「人生ひとつのことに打ち込んでロングラン、しかもいゝ仕事が残せる秘訣は何だと思いますか」という問いに 「自分に対するウヌボレだ」と答えていた。
確かに人間ひと皮むけば弱いもので、自分に対して自信をもたせるのに、人に誇示する必要はないが、ひそかに、自らうぬぼれていることが必要であり、そういう何かを持っていなければやっていけないのかもしれない。
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自尊心とも自信とも違う、自負心とも一寸違う、やはり ”うぬぼれ”(自らほれる)何かを誰も持っており、それによって支えられているのであって、その支えが何かではずれたとき、人間は自らがたがたになっていくのではなかろうか。
結 婚(Ⅱ)
結婚シーズンである。
相思相愛の二人が結ばれてめでたく挙式。今日から晴れて夫婦である。
”恋愛は麗しき誤解であり、結婚はさんたんたる理解である”という。めでたい華燭の盛典にケチをつける気はないが、いずれにせよ、結婚は、不完全な人間同士が、契約によってひとつ屋根の下で生活するということである。
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お互い、自分だけが完全である筈がない。それならそれなりに、お互いの不完全さを初手から認め合うことーーーつまり許し合うこと。あなたはあなた、私は私とお互い一歩ずつ譲り合う事が夫婦円満のヒケツだと思うが、如何なものか。
(70・S・45・5)