つ き (25)
この世の中には、人間の浅はかな知恵でははかりしれない何かがある。
俗にいえば、「つき」ということであるが、運のいい人、悪い人、誰のせいでもないのに,めぐり合わせが、自然とそうなってしまってくることがある。
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(弾 丸)
戦争で、弾丸が飛んでくる。弾は悪人を選んで当たってくれる訳じゃない。そして誰かが死ぬ。
戦争に行ったことのある人から聞く体験談の中には、必ずこの運・不運がつきまとっている。だから、あれは軍隊ではなく 「運隊」だと言った人がいた。いずれにしても、あの戦争で,戦地、内地を問わず生き残ったすべての人が、何らかの意味で ”ついていた”と言えるのだろう。
(原子爆弾)
その頃、中学三年生、十四歳だった土筆生は、戦争に行くには年が足りなかったが、銃後の守りとして兵器工場に動員され、二交代の徹夜勤務で旋盤を動かしていた。そして、ある日の朝方五時頃だった。バイトと機械の間で右手薬指をつぶし,爪をはがして公傷十日というケガをしてしまった。
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それから毎日病院通い。午前九時頃,いつもの通り病院に行って順番を待っていたら空襲警報、ーーー解除になるまで診療中止だという。五十分も電車に乗って来たのに何と言う事だ、と腹をたてながら家にたどり着いたとたんだった。ピカッと光ってドン。
長崎に原子爆弾が投下されたのはその日の十一時0二分だった。
あとから分ったことだが、一時間前まで自分がいた三菱病院は、被爆中心地の真っ只中で、跡形もなし。ーーーそして怪我もせず工場で働いていた沢山の友人もーーー。
(日本海海戦)
古い話で恐縮だが、日露戦争・日本海海戦。東郷平八郎は連合艦隊を率いて、対馬沖でロシアのバルチック艦隊を待ち受け、そしてこれを破った。東郷はその時、もちろん綿密な計算があっての上で、対馬海峡で待ち受けたのだろうが、考えようによっては ”ついていた”と言えない事もない。レーダーもない時代である。もしバルチック艦隊が対馬海峡でなく津軽海峡からウラジオへ入ったとすると、完全に裏をかかれて待ちぼうけを食ったことになる。
対馬海峡か、津軽海峡か?、その確立は二分の一。言ってみれば ”丁か半か”ではなかったか。
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飲んで聞いた話なので確かではないが、その時の連合艦隊司令長官を選ぶのに、時の海軍大臣、山本権兵衛が候補者の中から ”東郷はツキのいい男だから・・・”という理由も含めて彼に白羽の矢を立てたのだという。
だとすれば、、その後の日本の運命を決した日本海海戦に勝ったのは、東郷さんの”つき”を見越した山本さんの ”カン”だったと言えないこともない。
(コンピューター)
記憶も新しい朝鮮戦争で北朝鮮に瀬戸際まで追い詰められた連合軍が、やっとのことで巻き返し、さてこれからと言う時に、マッカーサー司令長官がトルーマン大統領に突然解任された。真偽のほどは定かでないが、当時のこの決定はコンピューターがはじき出したものだという話を聞いた。世も変わったものである。
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コンピューターといえば、シックス・ナインの精度と豪語したアポロが十三号で事故を起こした時、 ”いや、6・9といっても、あれは実は,個々の部品の精度について99.9999%ということであって、これを何千個だか何万個だか組み合わせたものを綜合して計算するとその精度は何十%とかになるのであって、事故が起こっても不思議はないのだ”と解説者が話していたが、コンユーターがものすごい速さと精度で正確に計算できると言うことは、同じ速さ
と精度で正確に間違えるということも云えるのではないか。
(悩 み)
その超近代的なコンピューターを駆使して造り、飛ばしたアポロ十三号が、故障のため計画を中止して地球に戻ってくる時,搭乗員が一番悩まされたことは、 ”水と空気”という、もっとも人間生活の基礎的な悩みだったという。
そして彼らが、莫大に高価な乗りもので、もっとも動物的な苦しみを克服しながら悪戦苦闘しているとき,その生還を見守る全米の人たちがなし得たことは、ただ神に祈ることであった。
そして、その当人たちが、無事地球に戻り,洋上から救出された空母の甲板の上で最初に言った言葉は何であったか・・・。
「もし、あの事故が月からの帰りに起こっていたら私達は地球へ戻れなかった筈である。私達はついていた・・・」。
(70・S・45・7)