育 て る (29)
ある会社の重役さんの随筆に、「子供に贅沢させてはいかん。だから自分は子供と旅行する時は、いつも普通車に乗り世の中の本当の姿を見せることに腐心している」ということが書いてあった。
ところが、別の機会にある会社の社長さんが「自分は赤貧の中で苦労して育ち、現在の地位と財を築いた。だから、子供にはすべて一流のものを与え一流の中で育てるようにした。高校時代からゴルフを教え、その社交の中で紳士の道を学ばせるようにした。旅行はグリーン車、宿は一流のホテルで子供に自然に一流の気品が備わるように努力した」と書いてあった。
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子供には雑草のようなバイタリティと、世の中の底辺の生活の辛さ、哀しさ、みにくさ、あるいは美しさを肌を通して味あわせたい、また逆に、どんな高級な場所へ出てもおめず臆せず堂々と振舞える品格を身に着けさせてやりたい・・・と思うのは、欲張りのようではあるが偽らざる親としての心情であろう。
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誰であったか、「子供の頃、小遣いは何に使うのか質された上、それに必要な分だけをその都度渡されることになっていた。ところが、初めてのひとり旅の時、それこそ初めて自分の裁量で自分の自由になるお金を渡された。それを使うのが珍しかったり面白かったりで、上野から新潟まで駅で汽車が止まるたびにアイスクリームを買って食べたことが忘れられない」ーーーという思い出話を書いていた。
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子供に与える小遣いーーー。
日本人は、子供が何歳になったから、何年生になったから・・・ということを金額の尺度にして小遣いを与える。だから兄は弟より多いのは当り前であり、弟もそれについて不満はない。兄の年齢になれば自動的にその額になるのだからーーー。
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欧米人は子供に小遣いを与えるのにそんな決め方はしないそうである。何かひとつの仕事ーーー皿洗いとか、ペンキ塗りとか、庭の芝刈りとか各々年齢に応じてやり遂げられる仕事をスポットで或いは継続的に与え、それをやり遂げた仕事の価値の大きさに応じてお金を与えるという。
その小遣いの与え方の違いが、日本人と欧米人とのお金に対する考え方、ひいては仕事に対する考え方、年功序列と実力主義の基盤の違いを作っているのではないかという。
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何とか天皇は(まだ自動ドアなんかなかった)子供の頃、戸というものはその前に自分が立てば、ひとりでに開くものだと思い込まれていて、お付の人がいない時いつまでも戸の前に立っておられたという。
美智子妃は浩宮さまがそんなことなっては困るが、好もうと好むまいと、どうしても生活の態様そのものがそういう方向になりがちである。毎回の食事も座っていればどこからともなくテーブルの上にご馳走が自然に運ばれてくるものだ、と思い込んでしまいそうなのが心配だ。だから、食事は、このような人達の、このような作業と努力によって作られているものだ、ということを知らせるために厨房の見学もさせているのだという。
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我々庶民の生活では、そこまでの心配はないが、うっかりすると、汚れたシャツを洗濯篭に入れ、代わりに整理ダンスからきれいにたたんであるシャツを出して着ながら、汚れたシャツを篭に入れておくと、いつの間にか綺麗になって箪笥の中に入っている。その過程の洗濯したり、すすいだり、乾したり、取り込んだり、アイロンしたり、たたんだりーーーという女房の労苦には思いをいたさないものである。
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一流仕込みで育てるもよし、小遣いを定額で与えるもよし、そこらあたりは夫々の家庭の流儀で結構であるが、少なくとも自分の生活が、自分だけの努力によって支えられている“唯我独尊”といった、ごうまんな考えを持たないよう、自分の生活が大勢の他人の努力に支えられて初めて立っているのだという、基本的な考え方は理屈でなく生活のベースとして、子供に知らせておきたい。