戦 友 (30)
”戦友”という歌がある。日露戦争時代の古い歌であるが、軍歌と言うよりも戦場における男の友情を、戦死のシーンから逆に出征まで回顧風につづった短調の名曲で、せつせつとして聞くものの胸をうつ。
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若輩のため戦友と言う友を持ったことはないが、土筆生の場合、いろんな友の中でどんなに年数を経ていても、一瞬にして時間を飛び越え、いきなりオレ・オマエで盃を交わせるのは学生時代の運動部の友である。同じ学生時代の友の集まりでも、一緒に卒業したというだけの同窓会となるとどうもそうはいかない。 ”友”とは、同じ時期に同じ事で弱点も何もさらけ出し、ともに泣き、ともに笑い、ともに悩んだ、丸裸で付き合った仲間たちに限られる。
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「水清ければ 魚すまず」という。泥にまみれたこの世の生活のなかで、付き合いだけがオツにすました表面上だけのきれいごとですませる訳がない。
そのような中でプロローグなしで、いきなり本文だけで話の判ってくれる友こそ本当の友、というべきではあるまいか。
ごまめの 寝 言 (Ⅲ)
(仕 事)
仕事は、楽だから楽しいのではない
また
仕事とは、追っかけなければ 追っかけられるものである。
(男)
男は、何でもよい、何かひとつ持っていなければならない。
また
男は 少し不気味でなけりゃいかん。
何か知らない計り知れないxがなけりゃいかん。
(女)
女は、一生のうちに次のように変化するものである。
赤ちゃんーーー幼児ーーー少女ーーー娘ーーーママーーー
おかあさんーーー おふくろーーーおばあちゃんーーー
**大姉。
育てる
”育てる”ということは、 ”任せる”ということ。育てる以上は、自分から見れば頼りなく思えても、一度は決断してやらせて見なければならないトキがくる。
獅子はその子を,千尋の谷底に突き落とすというではないか。
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「任せてみよう」、という気にさせるか、させないかは子供(部下)の問題だが、任せられるほどに、育っているかどうかは親(長)の問題である。
子 供
昔、少年がひとしく憧れた学校に、陸士(陸軍士官学校)・海兵(海軍兵学校)というのがあった。日本中の十六~十七歳の少年の中から選び抜いた少年を、将来の軍隊の幹部として育てるために,、教官も寝食を共にしてしごくのもしごいたが、これらの少年は将来の日本を背負って立つ将校としての矜持と特権も同時に与えられ、服装から別にして、初手から兵隊とは違う人種として育てられた。
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人間は ”らしく”扱うから ”らしく”なるのであって、子供はいつまでも子ども扱いするから、いつまでも子供でいるのではないか。
親たるもの人生の先達として、子供に対しては一歩ずつ先に道をあけてやって歩かせるくらいの育て方が必要なのではあるまいか。
否応なしに子供は、精神的にも肉体的にも大人に脱皮していく。その現象を親の好みから抑えるよりも、むしろその方向を助成し、育てる方法を考えることの方が大切なことではないか。
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戦国時代の武将の子は、十五歳で元服して大人の仲間入りをしたが、その時一本立ちの人間として、自らの責任において生きるために、最初に教えられたことは ”切腹のしかた”だったというではないか。