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雑記帳

片々草はじめに

片々草(I) 目次

片々草(II) 目次

悲しき酒(片々草抜粋)

 

 

 

 

 

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02-Jan-2013

片々草の連載を始めてから早いもので、この十二月号で三十号になりました。格別の理由はありませんが、”ここゝらで、ちょっとひと休み、。この号でひとまず終稿することになりました。
 *
 当初、自分としては、 ”近頃思うことのカケラ・・・片々(片々草)”。のつもりでこの表題を考えたのですが、すっかり「ぺんぺん草」として生い茂ってしまいました。
     
三年半もの間、この片々草をご愛読くださり、時々にご批評と励ましを賜った読者の皆様方にお礼を申し上げ、 ”こうもり”のますますのご発展を祈りつゝ
ペンを擱きます。
          
    昭和四十五年(一九七十年)十二月   
                                    
                            (土 筆 生)

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   こうもり 編集室気付  土 筆 殿 

 「一九七0年の歳末もいよいよ押し詰まり何かと多用さを覚え気ぜわしい毎日でございます。(略)
 小職は十年来、貴社の「こうもり」を愛読いたしており、特に「片々草」には興味をもって読ませて頂いておりました。本稿を読みいよいよ筆を擱かれます御由、寂しい感じがいたします。
 巧妙なる筆の中に読み取れます世情さまざまの比喩は、私たちにとりましても大変参考になり、時々に弊誌「ぐんぜ」にも引用して使わせて頂きました。
 朝礼の訓話に挿入したこともありました。これはただ私ひとりのみならず読者の多くの人々が共に感じます惜別・感懐の情だと思います。
 事情許せば再び筆跡を拝したく期待しております。面識もなき者の希望ですが、宜しく、ご健勝のほど祈り上げます。
          
                                    
                   ぐんぜ株式会社人事部 
                      社報ぐんぜ編集主幹
                                 M. N.
      

 

            先 入 観           (31)
  
 「玉ヘンに包む・・・と書いて何と読む?」・・・「フンドシ」、と言う笑い話があるが、そそっかし屋が、そのふんどしをはめたまま風呂に飛び込んだ。これを見ていた人が ”きたならしい”と言ったら ”それじゃ、お前さんはどうやって入る?”。 ”もちろんわたしゃフンドシを脱いで入る”と答えたら、その男の曰く ”つつまれるものを直接入れても汚くないのに、それを包むものをいれると、どうして汚いんだ”と問い返したーーーという落語のマクラがある。
 人間の持っている先入観というものは理屈抜きでむつかしいものである。
 *
 先日、出張の汽車の食堂車で、合席に座った品のいいジイさんが、こうもりのバッジを見て ”日石さんかね?。今、日石の株を買ったらどうだろう”なんて話から、ビールを注ぎあう仲?になった。
 ところが、そのジイさん、話しながら入れ歯をはずしたまではよかったが、その入れ歯をやおらビールにひたして爪楊枝で掃除を始めたものである。そして、きれい?になった入れ歯を無造作にカプリとくわえこむや、何のためらいもなくそのビールを軽く飲み干して涼しい顔ーーー。あっけにとられつゝ、心中 ”キタナイ”とつぶやきながら前述の落語のマクラを思い出した次第。

 食事のマナー、旅のエチケットetc・・・言い分は人によっていろいろあろう。しかし、あのオジイさんにとってあのビールは汚くないのである。落語流にいえば、きっとジイさんはこう聞き返すだろう ”それじゃ、あなたはビールをどこから飲むんです?。ーーー鼻からですか?”
 しかし、シカシである。卵とハムを別々に食べて、あとでハムエッグを食べたとは言えまい。ジヨッキで酒を飲んでもやはりうまくないし、ご飯茶碗でビールを飲んでもどうもしっくりこない。
 人間の習い覚えた先入観というものはこれは、理屈抜きで相当しつっこいものようである。

        知らしむ可からず         
  
 中学校の頃、封建時代の政治のやり方について、「民よらしむ可し、知らしむ可からず・・・と言って、民衆なんてものは衆愚なのだから、本当のことを知らせてはいかんのだ。寄せ集めておいて、ただ言う事をきかせるようにすればいゝんだ。ーーー本当のことは知らせないでおいて、適当な程度に満足させるのが政治の要諦なのだーーーこれが、封建時代の政治のやり方だった」と言う風に教ったように思う。そして成る程そんなものかと思い込んでいた。

 ところが最近読んだ本の、太平洋戦争 連合艦隊司令長官、山本五十六の書簡の中に 「此の身 滅ぼす可し、此の志 奪う可からず」というのがあった。昭和十四年頃、日米開戦の趨勢に反対し、急進右翼につけ狙われていた当時、万一の時のために用意していた遺書の中の一文だという。

 この文の意味は、「俺を殺す事はできるだろう。だけど、俺のこの信念を奪うことはできませんよ。たとえ一人の山本を殺しても、この山本の志は脈々として俺の率いる海軍の中に生きていくだろう」」ーーーということに違いない。
 だとすれば、「民よらしむ可し、知らしむ可からず」というのは、文法学上どう説明するのが正しいかは知らないが、「一般大衆を寄せ集めることは出来る(可能だ)。しかし、本当の意のあるところ”真意”を末端まで知らせる事は難しいことだ。むしろ、知らせる事はできない」。・・・と解釈するのが正しいのではあるまいか。
 この解釈の当否は読者の方にお任せするとして、実際に自分の経験からみて ”人をよらしむ” ことはできるけど、”知らしむ”ことは出来ないと思うが如何なものか。

         発   展          
  
 「沈香もたかず、屁もひらず」という。大して役にもたたないが、さりとて、これと言った欠点もない人のことである。
 「寝ていて転んだ試しはない」と言うーーー確かにじっとしていれば、無事大過なく平穏無事ではあろう。しかし、病人ならいざしらず、人間この世に生をうけて、それでは何とも不甲斐ないではないか。

 跳躍するためには、いったん身を縮めなければならない。走るためには体を傾斜させねばならない。次の発展のためにする、そのような格好を気にすまい。「転ばないために寝ている奴」の言う事なんか気にすまい。
(71・S・46・7)40歳(室蘭製油所)