しきたり (33)
相撲の ”仕切り”。。ーーー子供の頃初めて相撲を見たとき、しきたりとは言いながら、あの仕切りの繰り返しが、何とも悠長で、その長さの割にはあっけなくついてしまう勝負に興味をそがれたことを覚えている。
だが、最近は、あの仕切りの持つ意味が判って来た。そして仕切りの間をつなぐ塩のひと撒き、ひと撒きまでもが貴重な儀式に思えるようになってきた。
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相撲の話ばかりで恐縮だが、負けた力士は土俵に一礼して、すぐ引き揚げるが,勝った力士は残っていて、これからとる土俵上の力士に ”ちから水”をつけてから引き揚げていく。縁起をかついだしきたりと言ってしまえばそれまでだが、この ”しきたり”ということ、意味があってもなくても、我々の生活の中でも一応考えねばならないことのような気がする。
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青函連絡船に乗る。わずか五〜六時間の航行なのに,出帆するときは必ずドラが鳴り、蛍の光のメロディが流れる。まさかドラが鳴らなければ船のエンジンがかからない訳のものでもあるまいに、あれも ”しきたり”なのだろう。
わが家では、朝、折り目のついたピンとした朝刊はまず亭主が開くことになっている。別に、”そうする”と宣言して実行しているわけではないので、時に子供が何かの拍子に先に開いて、漫画か何かを見たりしていると、どうも朝の幕開けのリズムが狂う。
朝飯のご飯も味噌汁も、まずは亭主の分からよそうことになっている。別に亭主関白というのではない。何となくそういうしきたりになっているだけのことである。
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それらのことは、ーーー塩も、ちから水も、ドラも、新聞もーーー今流行の合理精神からすれば、ナンセンス ”古い” の一言で片付けられそうであるが,、土筆生はそれらの ”しきたり”の中に何とも言えない人の世の生活の ”けじめ”と ”情(こころ)”を感じるのであるが、“やはり 古〜い人間なのでござんしょうかねえ“。
見 栄
おしりに”デラックス”と書いてある車。自動車会社の販売政策としては判らんでもない。だけどタクシーならともかく、自家用車のおしりに、 ”冷房車”と書いたステッカーを貼って走っているのはどういう神経なのだろう。
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近所への見栄のために、ありもしないテレビのアンテナだけを屋根の上に立てゝいる家があるそうだ。まさか?と疑っていたが、わざわざ ”カーステレオ”なんてステッカーを車の外に貼っている車が実際にあるところ見るとまんざら嘘でもないのかなあ。
投 書
A新聞の投書欄からーーー。(太字筆者)
「からだがだるい、微熱が続くと夫がいうので、さては結核かと病院に行かせたところーーー(略)薬も山ほど貰ったけれど効き目がない、そこで私が電話で文句をつけたらーーー(略)あんなやぶ医者やめなさいーーー云々(略)」。(東京・主婦・二十三歳)。
ついでに、もう一つ、東京の団地の二十五歳の主婦の投稿。
「マイカー族が快いエンジンの音を残して出勤する。(その状況の説明があって)・・・その後ろから夫は、今日もギッチラコと自転車のペダルを踏んで出勤する。冬は身を切るような冷たい向かい風に逆らって、耳まで真っ赤にして帰宅する夫をみると ”パパにも車を買ってやろうかしら”と私の気もゆらぐーーー(略)」
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いずれも、亭主が女房のことを言っているのではない。また子供のことを言っているのでもない。女房が亭主のことを言っているのである。何とも情けない世の中になったものではないか。
コスモス
秋たけなわである コスモスの花盛り
このコスモスのように
明るく 清楚で せんさいで
無駄がなく ろうたけて 風情があり
それでいて おごらず 誰にでも親しみやすく
一輪いても 沢山むらがっていても 美しい
こんな女に 私は なりたい
(71・S・46・11)