反 抗 期 (42)
自分の子供の頃、特にニキビ盛んな中学生の反抗期の頃のことを思い出してみると、 ”あゝ、おやじは(おふくろは)、あの時こんな風に思っていたんだろうなあ”と今になってひしひしと判ることがある。
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子供を育てながら、ふと、 ”あゝ、そうか、親父はあのときーーー”と、自分が父親になった今頃になって判ってみても遅いのだが、その当の子供も、やはり自分が親の立場になってから、やっと判って反省することになるのだろう。
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「子に返す 親の恩」ーーー昔の人は、いいこと言っているなあ。
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目 的
こちらの桶に溜めてある水を汲んで、向こうの桶へ運ぶ。・・・何度も何度も足を運んで、やっと全部の水を移し終わったら、今度は同じ事の繰り返しで、向こうの桶からこちらの桶へ、また水を移させるーーー。
たいした労働ではないが、これを一日中、そして毎日毎日繰り返させると、大抵の人間は参ってしまうそうである。
体罰でなく、もしこれがある程度の日当になったとしても、そんな無意味なやり甲斐のない仕事は誰だって嫌だろう。しかもこれを強制的にやらされたら、精神的に参ってしまうのは当然だろう。
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ところが、我々が自分の時間を割いて、たとえばキャッチボールをするのは何故だろう。二人が向かい合って、ボールを投げたり受けたり,単調なリズムで同じことの繰り返し、先程の水運びの話と実質的にはあまり変わらないーーーそれなのに、人は何故好んでキャッチボールをするのか?。
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結局、この二つの違いは、前者はイヤイヤながらの義務であり,、後者は自ら選択したものであり、選んだ理由には、体を丈夫にするためとか、野球がうまくなるためとかの目的があり、従ってもう少し早く投げようとか、今度は低めに決めよう、とかという工夫が入るからではないか。
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床屋に行くたびに思うのだが、この床屋さんは、人の汚い頭を刈って洗って、やっと綺麗に仕上げたら、ハイ、さようならーーー。また、次の汚い頭を刈って洗ってーーー。
来る日も来る日も同じことの繰り返し、もちろん、生活がかかっての話ではあるが、考えようによってはつまらない話である。
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ところが、これを ”つまる”ようにするか、 ”つまらない” ものにするかは考え方次第なのであって、ただ、義務感だけで、しょうことなしにやったのでは ”つまる”筈がない。これを喜びにするためには、自らの努力で目的意識をもつこと、その単純な作業の中に、工夫をいれることではなかろうか。
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ひと口に頭といっても、その形は千差万別だろう。それを、どう始末しどう仕上げるか、要は考えること、工夫すること。そうすることによって、出来上がりに対する関心が生まれ努力も生まれーーーそれが完成の喜びにつながっていくのではないか。
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何にせよ、仕事が単純だ、つまらないとぼやく人には、どこまでもその仕事はつまらなくなるし悪循環の中に落ち込んでいくが、これを喜びにし、生き甲斐にする人は、その同じことが、好循環の出発点になるのではないかーーー。
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会社まで三キロの道を、毎日歩いて通っている人がある。変わった人だというなかれ、人生すべては健康から、健康は足腰からとこの人は信じているのである。歩き始めた動機はゴルフがうまくなりたい、その基礎として先ず足腰を鍛えねばということだったという。
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例えば、庭の草刈をするのに、この雑草が増えるほどお金がふえればなあ、とボヤいたりしないで、どうせ刈るなら左手に鎌を持ちいつも弱いと言われる小指と薬指のグリップを鍛えるつもりで刈っていけば、一石二鳥というものではないか。
電車に乗ったら座らないで必ず立つ。電車の微妙な揺れの中で、つま先だって体の平衡を保つ訓練をする。足腰を鍛えるためにこんな機械を作ろうと思ったら大変なものですよ。と笑っていった人があった。
同じことでも考え方ひとつで幸にも不幸にもつながっていくのではないだろうか。