健 康 (46)
人間の形に似せたロボットを作り、これを歩かせるためにどれだけの装置が必要か。一七0センチ六十キロ の人形をせいぜい十センチ幅二十五センチの足二本で立たせることができるか?。なのに我々はいとも簡単に立っている。無造作に走ることだって跳ぶことだってできる。
見える、ということ、聞こえる、と言うこと、「味」とは、「匂い」とは、いったい何なのか。我々がふだんごく自然に当然と受け止めていることが、よくよく考えてみると実は大変なことなのでる。
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仕事でリハビリテーションセンターを訪れる機会があった。
何の悪い事をした報いでもないのに、思いがけず、ある日突然に体の一部が効かなくなった人達が,、もと以上にというのではない、せめて、もとなみの体の機能に戻ろうと、懸命の努力をしておられる。個々に細かく描写するのさえ気が遠くなるような努力。額に汗し、顔を苦痛にゆがめながら、それでもそれぞれに必死の努力をしておられる姿を見て思った。
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我々は、健康の上にあぐらをかいているのではあるまいか。考えようによっては傲慢にさえなっているとも言える。我々は現在健康であることを見つめなおし、健康であることに感謝しなおさなければならない。そして自分達の現在の健康を保つために、病気になってからの、あれだけの努力の半分、いや十分の一の努力を惜しんではならないと思ったことであった。。
雰 囲 気
”男の顔は履歴書である。女の顔は請求書である”といったのは、今は亡き大宅壮一さんであるが、女の顔が請求書であるかどうかは措くとして、 男の顔がその人の履歴書である、というのは一面を衝いている。
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男は四十になったら自分の顔に責任を持て、というのも、そこらあたりのことを言っているのだろう。事は顔の美醜の問題ではない。昔は、人生五十年、といった。人間、この世に生を享けて四十年も経てば、その人の経てきた人生経験が醸し出される言うに言われぬ雰囲気というものが出て来るものある。
無 理
”無理が通れば道理がひっこむ”というが、たとえば、我々が屈伸運動をする時に、無理なく痛くないように、きつくないように・・・では、これは運動にならないのである。
腰を曲げる。もう少しで指先が床につく、足が突っ張る、腰が痛い、そこのところを我慢して,、昨日より今日、今日より明日・・・、と少しずつ無理をするから、やがて手のひらまで床につくようになる。
昨晩はつい飲みすぎた、頭が重い、起きたくない。ーーーだが会社に遅れてはならない。そこのところで無理をして起き上がるから二日酔いはなおるのである。
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”ガッツ”といい ”根性”という。これは結局、無理に耐えるーーー綺麗な言葉で言うなら”、精神力”、平たく言えば”我慢”ーーー「ヤセ我慢」のことではないか。人生きれいごとで、何もかも、無理なく合理的にすんなりばかりいくものではない。
進歩のため、飛躍のためには、常に無理は欠かせないものかもしれない。
寿 司 や
寿司やの大将に聞いた話。
寿司やの板前は、板の前に立つ時、お腹を空かして立つそうである。寿司やには当然のことながらお腹を空かした客が寿司を食べにくる。その寿司を握る板さんが、おなか一杯でゲンナリしていて、うまい寿司が握れるわけがないという。
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同じネタを見ても、腹が空いていればこそうまそうに見える。そこで入れる包丁にも熱が入ろうというもの、握る手つきも捌けようというものである。
客が入ってくる。 ”ヘイ、イラッシャイ” ”ヘイ、トロイッチョウ” ・・・どう考えても、板さんはお腹を空かしていなければならない。