い の ち (49)
昔から,鶴は千年、亀は万年と長寿のチャンピオンみたいに言うけれども、本当のところはどうなんだろうか。そこへいくと、日光の太郎杉は樹齢五百年だという。推定にしろ何にしろ、太郎杉は我々の目の前に実在するし,天変地異がない限りなお営々として永劫に生き続けていくのではないだろうか。この地球上に生あるもので、一番長く生きているものは、或いは樹なのかもしれない。
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さして園芸に趣味がある訳ではないが、中研のK・Sさんに十年も前に貰った折づるランの鉢を転勤の時も持ち歩いて育てている。水をやるだけで実に奇麗な細い葉が次から次と出てくる。当然下の方の古い葉は次第に黒ずんで枯れ、いつの間にか落ちて新しく出てきた葉に自然に代わっていく。ーーーそのうち、葉の中のほうから細長い管みたいなものが伸びてきたかと思うと、今度はその管の先にもいくつもの小さな芽が出てくる。これが何本も出てきて、その新芽の発育につれて、その重さで新芽が地面につく頃になると、、そこから新しい根が出てきて、また大きくなっていく。
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まったく、巧まざる自然の営みである。古いものはだんだんと新しい生命に時代を譲っていくーーーとすると、この折づるランの生命も、太郎杉と同様永遠なのではないか。
・・・と、こう考えてくると、人間の生命だって自分の命は絶えても、ちゃんと子供が育っている。樹に限らず,個の命は絶えても、やはり生命は無限だというべきか。
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日本石油は、今年創立八十五周年を迎える。アメリカのニューヨークタイムズ社では、先輩が会社を去るとき ”われわれは先輩から受け継いだ灯を消すことなく灯し続けてきた。いま、この灯を君たちに渡す”という意味のことを言って会社を去るそうだが、われわれも八十五年間続いてきた日本石油の灯を、我々の手で更に明るくし、次の世代へ引き継がなければならない。
電 話
まだ、かけたことはないが、「留守番電話」というのがあるそうだ。留守番電話にセットしておくと、、かけてきた電話の相手に ”今は留守しているが、用件をテープに録音しておいて、後ほど聞くから言いたいことを言ってくれ”という趣旨のことが送話器に流れ ”プー”と音が鳴るのだそうだ。
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忙しい文明社会が生んだ利器であり、相手が不在でもかけた方も無駄にならないで便利には違いないが、実際に経験した人の話によると ”さあ、話せ”といわれて、用件を話し始めても相手はいない。機械に向かって、ただ一方的に話をするのは、何とも話しにくいし味気ないものだそうだ。そして、この留守番電話をかけた人の曰く ”ふだん、気にもかけていなかった、話し合いの途中での相手の何でもないうなずくしぐさ、或いは短いあいづちが、その話し合いの進行に、どんなに大きなウエイトを占めているか、つくづく考えさせられた”という。
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話し合いは、聞き手があるから成立する。例えばわれわれは、新聞にどんないい記事が載っていても、タイトルを見て関心がない記事は読まない。読まれない記事は書いてないのと同じであるように、話し合いにおいても、一方がいくら声を大にしても、聞き手が ”波長”のダイヤルを合わせなければ発声練習と同じである。
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”傾聴”・・・。心を傾けて聴く、というが、話し合いはお互いのためのもの、簡単なことのようだが、、会話において真面目な反応・あいづちーーー。お互いの協力を忘れてはならない。
ど う も
”どうも”・・・という言葉。
結婚のお祝いに行って ”このたびは、どうも・・・”。お葬式に行ってもやはり ”このたびは、どうも”・・・で後はムニャムニャ。これで大抵の場合の挨拶にはこと欠かないのだから便利な言葉ではある。久しぶりの友人に会って” ”や、どうも、どうも”・・・そして、別れるときも ”それじゃ、どうも”
この ”どうも”という言葉は ”どうも”なケッタイ言葉である。
(73・S・48・10)(横浜製油所)