時 計 (5)
あこがれの中学校に受かって入学するとき、当時の誰でもがそうであったように、その日から、半ズボンが長ズボンになり、父から腕時計と万年筆を与えられた。急に大人になったような気がしたあの時の感激・・・。
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その時の父の注意。「時計というものは非常に繊細で精巧な機械である。従って大事に扱わねばならん。ネジは毎日決まった時間に決まった回数だけ巻くべきものである・・・云々」。
それから十余年たって、自動巻き時計が現れ始め、当時まだ珍らしかったその時計をこれ見よがしにはめている奴から、「これは、こういう原理によって自動的にネジが巻かれる仕掛けになっている」。・・・と講釈をきかされた時、「いくら機械化が進み、忙しいからといったって、一日に一度時計のネジを巻くくらいが何だというんだ」と妙に反発を感じた事を覚えている。
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そして今、日付から曜日まで自動的に文字盤に現れる時計が一般化して、時計をはめていない時にも ”エート、今日は何日?”と、自然に手首に目をやるようになってしまってる自分。
世の中、そしてその中で生活する人間の「ものの考え方・感じ方」というものは、時代とともにいろんな要素に影響されて少しずつ変わっていくものであり、案外、当の本人はそれに気づいていないものゝようである。
赤 だ し
人に写真を何となく見せた後で、「今の写真の中に、 ”犬がいたか”と聞くと、半分くらいの人が “いた”と答え、半分くらいの人は ”いなかった”と答える」。 ところが「犬が何匹いたか」という聞き方をすると、「いなかった」と答える人はいないそうである。
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新橋の釜飯で有名なS店へいくと、仲居さんが注文を受けたあと「赤だしもお持ちしましょうね」という。すると、大抵の客が「そうね」と答える羽目になるが、不思議と押し付けられたという気はしない。これが、「赤だしはどうしましょうか?」と問われたら、すくなくとも半分くらいの人は「いや、いゝよ」と答えるのではなかろうか。
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ささいな事のようであるが、人の心理を考えた言葉の使い方、事は商売の儲け云々だけでの話ではない、人を動かす「話し方」というものに、我々はもっと注意を払ってもいゝのではなかろうか。
ありのすさび
「姉君の嫁ぎたまひて/いかのぼり/ただひるがへる/あるときは/ありのすさびに/あらがいし・・・」。 誰の詩だったか、そしてその後がどう続いたのか覚えていないが、中学生の頃読んだ詩。
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”ある ときは あり のすさびに あら がいし・・・”という韻をふんだ言葉の調子にもよるのだろうが、”いかのぼり ただひるがえる・・・”という表現で、姉さんがお嫁に行ってしまった弟の心の寂寥感が伝わってきて、妙に忘れられない。
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「破る子の なくて淋しき 障子かな」という句がある。ひっそりとした、夫婦だけの、きちんと整った、それでいてどこか物足りない家の中の雰囲気が伝わってくるような気がする。
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人間贅沢なもので、子供のいない家庭では、子供のいるやゝこしさをうらやましく思い、子供のいる家庭では、逆に小さな子に手を焼いて、ああ子供のいないあの夫婦がうらやましい、とため息をついたりしたくなる。青空にポツンと浮かんだ凧をみて、姉さんとケンカしたことを後悔してみたり・・・。 ” ありのすさび” ということ、・・・人間ってむつかしいね。
く じ ら
白長須<クジラを獲るとき、夫婦でいたら、先ずメスを撃つのだそうな。するとオスのくじらは、撃たれたメスクジラの傍を離れようとしないので簡単にオスもし止めることが出来る。これが逆だとメスは一目散に逃げるので一頭しかしとめることができない。
ところが、母子でいるときは、先ず子供を撃つ、同じメスでも母クジラになると、撃たれた子供の傍らを離れないと言う。
そこで問題。夫婦で子供づれ、三頭のくじらを撃つ時はどれから撃つべきか?。結局一番人?がいいのは、男といくことか・・・。