親 切 (51)
住所が変わって市役所の出張所に出向いた。いろんな手続きをするのに、あれが足りない、これが必要と、三度も足を運ばせられ、最後のところで印鑑を持ってくるのを忘れていた。窓口の女の子におそるおそるその旨を告げると、彼女の曰く「市役所に来るのに印鑑を持って来ない人がありますかッ」。なるほど、おっしゃるとおり、、だけど自分の手続ができないで困るのは自分である。何故こんな女の子に叱られなければならないのだろうか。
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ゴルフ場。コースの途中で、ちょっとのどをうるおすかーーーと寄った売店のカウンターの中に、ヒナには稀な美人がいた。注文のコーラを飲みながら ”今何時頃でしょう?”と尋ねたら、その美人、アゴをしゃくり横の壁を見上げて曰く「時計はそこにあります」。
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「先回りの親切」という。・・・例えばこういうことである。
旅館で朝起きる。洗面所に行ったら、歯ブラシ、歯磨きが置いてある。横に石鹸・タオル・かみそり・・・。顔を洗って部屋に戻ったら、さっきの布団が片付けてられていて、代わりに机が据えられ朝刊がのっている。横にお茶と灰皿・マッチ・・・。
さて、出かけようと玄関に出たら磨いた靴が出舟に揃えてあり、靴ベラが添えてある・・・。とまあ、こういった感じのことを ”先回りの親切”というのである。
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こういうさりげないサービスを受けたときの感じと、これがひとつひとつ後にずれた時の感じを想像してみてもらいたい。要は、やらねばならぬこと、やったほうがよいことを、先にやるか、言われてからやるかのちょっとした違いだけで、相手に与える印象に雲泥の差があるということである。
教 え
幾つの時だったか、とにかく子供の頃父から教わった言葉。
”楽は苦の種、苦は楽の種”
”上にも千人、下にも千人”
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何があった時で、何のために教えられたのかは覚えていないが、 ”苦しい辛い思いをした後には、その成果として楽しい思いが待っているものだ、苦というものは、楽の種なんだ。同じように、楽は、苦の種なんだ・・・”。
”人間、どんなに上りつめたつもりでも、それより上にまだまだ沢山の人がいる。ちょっとやそっと出来たから、よくなったからといって慢心してはいけない。逆に、どんな逆境になったと思っても、それより苦しい人、辛い人はまだまだ沢山いるものだ。それらの人のことを思えばやけになったり、投げたりはできない筈だ・・・”
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こんな考え方は学校で教わったのではない。人生というにはおこがましいが、生活の中で一つひとつの事象を捉えて父が教えてくれたことが、そのまま心に残っていて、折にふれて、ふと思い出されるのである。
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企業における教育訓練の本旨は、O・J・T(オンザジョブトレーニング)仕事を通じて訓練することにある、というが、自分の子供に対するO・L・T
(オンザライフトレーニング)・・・生活を通じて訓練する、ということも考えなければならないな。
口 こ み
近頃、思いがけない人から ”片々草、よく続きますねえ”云われることがある。続くばかりが能ではないけれども、確かに駄文の回を重ねて五十ケ月,我ながらもよく続いたものだと思う。
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それはそれとして、実はこの片々草は一回目から ”土筆生”というペンネームで投稿し、俺が書いているんだと言うことは公表しないで下さい、と編集部にお願いしてある。だから土筆生と小生の関係は、誰かのウワサをもとにして口から耳へ、耳から口へ・・・の口コミで伝わっていったのは確実である。
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まず、口コミの伝播力の広さに驚く、それからもう一つ、口コミの不正確さ・怖さ。———口コミは推量が事実として伝わっていく・・・例えばこんな具合である。
”片々草は、いつも飲みながら盃を左手に持って書くのだそうですね。(マサカ)。”近いうちに単行本にして出すというじゃありませんか。(マサカ)。
とにもかくにも・・・”はるけくも きつるものかな 五十回”。
(73・S・48・12)