酒 癖 (52)
”なくて七癖”というけれども、ご多分に漏れず酒にも酒癖というものがある。落語に出てくる酒癖は、笑い上戸に泣き上戸、壁塗り上戸と相場が決まっているが、上戸というほど大げさでなくとも飲む人には必ず飲むとき、飲んだとき、その人だけに備わった癖がある。いつも一緒に飲んでいる人だと、この人がこう言い出したらそろそろ酔ってきたんだぞーーーとわかる癖があるものだ。
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”ダイタイオマエサン、ロクナモンジャナイ”(H・N氏)。何か言うと ”ギョイ!”(H・S氏)。”タワケモノ!”(T・M氏)。 ”ブッコロスゾ”(M・T氏)ーーーこう例を挙げて言葉だけみると、いかにもその席が物騒でエキサイトしているように感じるがさにあらず、そこが酒飲みのユーモラスなところ、言う方もそのつもりはなく,勿論聞いているほうもそのつもりで聞いているわけではない。ただ、そのような事大な言葉を楽しんでいるだけのことである。
酒飲みは、飲んでいるうちにだんだん話声が大きくなってくる。すると、どこからともなく必ず現れて、二人の間に割ってはいり ”ケンカヲスルナ・ケンカヲスルナ”(T・U氏)と云いながら盃を出す人もある。
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そして面白いことにこの酒癖というものは変わらないもの。十年ぶりに逢って飲んでも、やはり十年前とまったく同じ癖が出るのである。飲むほどに、絡むやつは相変わらず絡んでくるし、はしご癖は、座ったと思うとすぐに ”さて、それじゃ河岸を変えるか”とくる。歌う歌も一~二新しいのが入っても落ち着くところは、武田節(H・I氏)であり、女のみち(K・I氏)であり、挙句の果ては,徐州・徐州と人馬は続くーーーの軍歌と相場が決まっている。
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結局、人の本性は何でくるんでも本質のところは変わらない、ということか。
考 え る
我々は、ストライクの醍醐味を味わいたくてボウリングをする。だけど考えてみると、どんなに出鱈目に投げても必ずストライクが出るとなったらどうだろう。おそらくボーリングはつまらないものではなかろうか。時にガーターがあり時に真ん中に入ったのに、両端のピンが残るから、だから、ストライクの面白みが出るのではないか。
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人生、何もかも思うようには行かない。時に嫌になることもある。しかし、人生とは次がどうなるか判らないーーーハプニングそのものが人生なのだと割り切れば、諦めもつこうというものではないか。
電車の中で
外人の老夫婦が座っている。たいして華美な服装をしている訳ではないのだが、かえって、普段着のその服装が板についていて、気品があり好感がもてる。何よりもその座り方の姿勢のよさに感心する。・・・と、その外人の男のほうがすっと立ち上がった。降りるのかと思うと、近くに立っていたおばさんに席を譲ったのだった。その自然な振る舞いーーー。
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ところが、席を譲られたそのおばさん、自分は立ったままで、さっと自分の子供を席の方に押しやったのである。そしてその子はいきなり席を譲った人に靴をはいたまゝの足を向け、窓の外に向かってヒザで席の上に乗ったのである。・・・おばさんは席を譲られたのも当然なら、子供が他の人に迷惑かけても知らぬ顔・・・(オオ!シェイム)。
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昼下がり,空いた電車の座席に座ってふと気がつくと、前に若い二人の恋人風が座っていた。実に明るく、何のくったくもなく、うなずき合い、笑いあいながら、何か話し合っているのだが、どうも様子が違う。静かなのである。
よく観察していると、何とその二人は聾唖者なのだった。どうやって意志が通じ合うのか、手や指や唇をサイン代わりに使ってはいるのだが、それも大仰ではなく全くさりげなく、それでいて、ホっとその回りが明るくなるような雰囲気なのである。
どうも我々は無駄な言葉が多すぎるようだな。