終戦記念日 (59)
また八月がやってきた。
当時、長崎に住んでいた自分にとっては、これらの日々が、自分の青春時代のすべてを凝縮し、そしてピリオドを打った思い出の月として、正月やお盆とは比較にならない重要な意味を持った月であり、日々なのである。
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当時中学三年生で十四歳。三菱の兵器工場に学徒動員され、昼番と徹夜番・十二時間の二交替勤務で旋盤を動かしていた。ネジ切り旋盤でマイクロメーターを使い、許容誤差一ミリの百分の五までという厳しい仕事だった。
何でも④艇と名づけられた特攻用のボートのシャフトに使用されるものらしいという噂だったが、何もかもが㊙で何も判らないまゝに、とにかく「お国のために」しゃにむに働いた。夜中に麦の入ったオニギリ二個とタクアンを支給されるのをただ一つの楽しみにして・・・。
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時に、工場の中を配属将校という戦闘帽をかぶりサーベルを吊げ、皮の長靴を履いたこわい将校が見回りに来た。自分に与えられた材料をうっかり削りすぎるともう取り返しがつかない。この配属将校に呼びつけられて「キサマッ!ヘイカの大切な材料を何と心得とるかっ!」と、大目玉を食らうのである。
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自分の中学生時代を振り返ってみると、三八(サンパチ)銃をかついで受けた教練と、この学徒動員と空きっ腹だけがすべてだったように思い出される。
そして八月九日。閃光一閃。長崎に原子爆弾が投下され、八月十五日「耐ヘ難キヲ耐ヘ、忍ビガタキヲ忍ビ・・・」の終戦の詔勅。
ーーーその日、むし暑く、やけただれた街の空に真っ白く盛り上がった入道雲の下で、七十年間草木も生えぬと言われた長崎に、カワラトンボが群れをなして低く飛び交っていたのが、今でも鮮やかに思い出される。
泳 ぐ
七月号「統率」を読んだ、もと海軍のM・Nさんの話ーーー。
「泳げない陸軍将校・・・いやアそれでいゝんですよ。輸送船が沈められた/、・・・”泳ぐ”と素人は考えがちですが、これは逆で、むしろ泳げない方がいゝ、太平洋を泳いでどこに辿り着こうというんです?。そういうときは、泳がない(泳げない)方がいゝんです。ところが、泳げる人はすぐに泳ぎたがる・・・これがいかんのですなあ」。
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「われわれ海軍でまず教えたことは、船が沈んだ時、普通の考え方では泳ぎやすくなるために服を脱ぐ・・・だがこれはいかん。助けはいつ来るか判らない。その間自分の体温を逃さんようにするため服は脱いじゃいかん。もっとも動きを楽にするため靴は脱ぐ(そのため海軍の靴はすぐ脱げるように短靴でカカトが浅く作ってあった))。後は助けがくるまで、如何に体力を消耗しないようにするかを考えること、泳ごうなんてのはもってのほか・・・。ということですよ」。
ーーー泳げん陸士のために、敢えて一言付記しておきます。(土筆生)
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ついでに、そのとき聞いた話をもう一つ。
「海軍の水兵の服ご存知でしょう。例の襟の大きいセーラー服。なんであんな女学生の制服(女学生が海軍のまねをしたのですがね)みたいに大きな襟を背中に背負っているか判りますか?」。ーーー「艦体勤務はもちろん海の上、当然四六時中風が強い、烈風吹きすさぶ中では相手の連絡や号令が聞こえなくなる。そんな時、あのエリを耳の後ろに帆掛け舟の帆のように両手で立てるんです。そのためにあんなデザインになっているんです」。
「ふんふん、なるほど」。
ごまめの寝言 (Ⅴ)
灯 り
灯りが暗いと思う時は、しばらく暗いところへ行くがよい。
戻った部屋は、もとよりずっと明るくなっている。
挨 拶
結婚式の挨拶は、短いほどよい。縮辞(祝辞)というくらいのものである。
あんまり長いと長辞(弔辞)になる。
(74・S・49・8)