正月雑感 (Ⅱ) (65)
この度の年末年始は前後に週休二日の恩恵をモロにうけて,九日間の連休と言う長い休みとなった。製油所の交替部門や宿・日直で連休にならなかった方々にお礼を申し上げながら、この元日に感じたことの片々・・・。
(年 末)
絶え間ない時の流れの中で時間に切れ目はないのだが、一応ここで節をつくり、年末から明ければ何かいゝものが来るような期待にも似た気分で、ふだんは手をつけていない物置の中を整理し廊下の硝子戸を磨く。ついでに蛍光灯のカバーもはずして洗う。探していた植木鉢が出てきたり、オヤ、この部屋はこんなに明るかったのか、と新しい発見をしたり・・・。
(大 晦 日)
家族一同でソバをすゝりながら、紅白を見るもよし,第九で歓喜の涙を流すもよし・・・。往く年・来る年の境い目で、日本各地のお寺の名鐘の余韻に、ふと自分も悠久の歴史の中の一員であることの感傷にひたりながら、明くれば目出度く昭和五十年・・・。
(元 旦)
何もかも合理化の進む中で、正月とはそんなものよと割り切って、ふだん疎遠な神社に詣ずるもよし、“本年もどうぞ宜しく”と知り合う人ごとにちょっと神妙に頭を下げ合うもよし・・・。
質素ながら門口のお飾りも、本箱の上の小さなお鏡み餅も、変にシラケて無駄だナンセンスと片付けないで、その物質的な無駄を精神的に楽しむ余裕も、正月なればこそか・・・。
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今日だけは客もなく、例によってオトソ・オミキの範囲を超えて、朝から天下晴れて一杯?を楽しめるのが、”めでたさも中くらい”のオラが元旦。もう大分徳利が並んだところで、暮れの K・T君との会話を思い出す。
”ウチには、まだ今年の正月の一升瓶に、これくらいお酒が残っているんですがまだ大丈夫でしょうかねえ”。”ヘエー、そんなのは料理にどんどん使ってしまえばいゝんだよ”。 ”エゝ、料理には去年の正月の残りを使っているんです・・・”。
世の中には何と幸せな奴もいるもんだなあ。俺も少し見習はなくちゃあーー。。
(年 賀 状)
忘年会続きの暮れに ”大体年賀状なんてものは年が明けた元旦に、新年を迎えた気分で書くのが本当の賀状なんだーーー”とぶつぶつ言いながら書いていたことは忘れて、何といっても元日の朝の楽しみはやはり年賀状。一枚一枚送ってくれた人のことを思い浮かべながら、ついつい盃も重なろうと言うもの、いい気持ちに酩酊しながらのつぶやき・・・。
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届いた賀状約五百枚。このうち版画や絵など自作のものが五十枚くらいーーー。床の間に一枚ずつ立てゝ並べて見直す。ストーブに赤い火の入ってるもの、濃紺の地に白く兎を抜き、目にチョンと朱がいれてあるもの・・・見るほどに作者のあったかい気持ちが伝わってくる。賀状とは本来こうあるべきものなのだなあ。
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「謹賀新年」と挨拶文、後は住所だけで、自分の名前のところは初めから自筆でサインするように空白にして印刷してあるのがある。なるほど、すべて印刷ばかりのものよりはやゝうるおいがでるな。
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目上の人からのものはともかくとして、当然一筆あるべき旧友から、ただ宛名だけで印刷ポッキリというのは何か裏切られたような気がするなあ。月並みでも、おざなりな言葉でも、なぐり書きでもいゝから一筆あって欲しいものだな。
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なんと、これは賀春と挨拶文だけで、差出人の名前のないのが三枚もある、かと思うと同じ人から二通来ているのがあるーーー。皆、暮れは忙しいんだなあ。
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相手に元日に着くように出す賀状ならば、文面も素直に ”今年はお世話になりました。お蔭様で・・・・。元日を如何お迎えでしょうか。昭和五十年もよろしく”という形の書き方にすべきだ、と誰かが言っていたが、確かに「すがすがしい元日を迎えました・・・天気もよくて・・・盃を重ねています。」なんてのを見ていると何か変な気がするな。
(決 意)
このところ、長嶋というと、 ”またか”という気がしないでもないが、この正月の新聞でぐさりと心に残ったその長嶋の言葉。
「監督になってチームを率いていくには、情ばかりではいけない。が、非情ばかりでもいけない。そこのところの兼ね合いが難しいと思うが、自分は、情を持って非常を断行していきたいと思う」。・・・よし、おれも今年は,これで行こう。
(75・S・50・2)