動 か す (88)
人の態度を他動的に変えることが出来るか?。・・・確かにある日突然に人が変わることもある。
中学生(旧制)時代、昨日までグズなドジな(と思っていた)Kという先輩が、或る夏の日、突然シャツの背中に ”海兵突破”と墨コン鮮やかに大書して登校してきた。その日から、昨日までと同じ人間かと疑うほどその男の態度が忽然と変わり、そして目標どおり海軍兵学校に合格していったことがあった。
しかし、これは当の本人が何かを契機に、自分自身で自分に悟って、自ら動機づけし、自らでエンジンをつけたからのことである。
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われわれは、時に人生の先輩として、後輩に訓戒を垂れなければならないことがある。然し ”泥棒にも三分の理”というが、失敗をしでかした者も、叱られながら夫々に ”何故そうなったか” の理由があり、コンコンと諭される言葉に、内心では反発を感じているのではないか。。
説教はえてして一方的でもあり、正しいと思うから高踏的で、然も一分の隙もなく筋が通っている。だけど説教される方は理屈ではなく、そうやりこめられることに感情が反発する。
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ガリレオは、宗教的な背景から自説を無理に否定させられ、これを認めながら「だけど地球は回っている」とつぶやいたというが、どんなに諄々と説いて聞かせても,大抵の場合相手の心の中にはこの「・・・だけど」と言う言葉が残っているのではないか?。
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一方、訓戒を垂れている方には、自分の言ってることは正しいことだ、相手の為なんだ、という押し付けがある。
追い詰められて逃げ場がなくなれば、あの小さなネズミでさへ猫にかみつくという。相手に言われていることで、逃げ場がなくなりメンツが立たずみじめになった人間が、心から態度を変えようとするだろうか。
「阿呆は、いつも自分以外の人々を、ことごとく阿呆と考えている。」
(芥川龍之介・侏儒の言葉)。
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ノイローゼ(精神病)が治ったかどうかは、「あゝ、あの時の俺はよほど悪かったんだなあ」と自分の往時を客観的に眺められ、反省的に振り返れるかどうかによって判定すると言う。酔っ払いは、必ず自分は酔ってない、というものである。
人の態度を変えようとするときは、相手に感情があることを忘れてはならない。人間、理性は三分で、感情が七分だという。理性は感情に敵わないのである。
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「人を動かす秘訣はこの世にただ一つしかない。それは、自ら動き出したくなる気持ちを起こさせることだ」。(カーネギー)。
「君、指揮をとるのは、馬に乗るのと同じだよ。走りたがらない馬にムチだけあててもうまく走りはしない。右へ回るときは、馬が自然に右へ回るようにするのがよい指揮者なんだよ」。(カラヤン)
化 粧
或る地方都市。汽車の待ち合わせに駅前のレストランに入る。昼食時で割りに混んでいる。 ”食券をお求め下さい”とある。例によってビールとおつまみ。ビールを傾けながらーーー。
(このいきいきとしたウエートレスのサービスはどうだろう。お化粧をしているわけでもないのに、なかなか清楚な感じの人を揃えているな)。
(うん、ビールの冷え加減もいゝや)・・・てな訳で、軽く一本が空いてしまう。まだ時間がある。
(入り口まで行って、食券を買い足すのも億劫だな)・・・と思いながら、たまたま横を通りかかったウエートレスに、悪いけどもう一本欲しいんだけど・・・。
(ハイ、有難うございます)。と気軽に食券を買ってお釣りと一緒にビールを持ってきてくれる。(東京じゃ、こうは、いかないな)。
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(だけど、あのレジにいるコの仏頂面はどうだろう。厚い化粧をしているけど、考えてみると、何のために化粧をするのだろう。敢えて男のためとは言わないけれど、とどのつまりは他人によく見てもらいたいからではないのか?。)
(化粧した仏頂面の女より、化粧をしてないが明るい態度のコに客が好感を持つのだとすれば、あのレジのコの化粧は無駄だな)。
く さ り
駅のホーム。水のみ場のコップにクサリがつけてある。これを見て ”コップを人が盗っていくから、クサリでつないである”と思うのではなく、 ”これは、風が吹いても飛んでいかないようにつないであるんだ”と、素直に思えるような人間になりたいな。
(77・S・52・1・)