壁を破る (9)
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東京オリンピックで日本女子バレーボールチームがソ連を破った。体力・体格で比較すれば、ソ連に勝てるわけがない。何故勝てたのか?。それは彼女らが練習で彼女ら自身の壁をひとつずつ破りながら、一人一人が最初には考えもつかなかった実力を身に着けていたからではないか。
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おとといは手の届かなかった球に、昨日はちょっと近づいた。もう二センチ・・・今日は一センチ・・・こうして生まれたのが回転レシーブであり、これによって体格的な非力を克服したのだ。ひとつの壁を破る。また次の壁に挑戦する。そしてあの栄光を克ち得た。
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R・Oさんの話
自分にはこんな経験がある。
満州の国境警備についていた。敵味方入り乱れた最前線。徹夜の歩哨。眠れば殺される。銃を立てると、これを支えについうとうととする。だから銃は小脇に抱えていなければならない。腕がだるい、雨が降る。木の下に入れば寄りかかって眠ってしまう。篠つく雨。一寸先が見えない。闇の中を目をこらして見透す。 ”三度誰何するも答えなければ、殺すかまたは捕獲すべし”と口の中で唱えながら、殺すか殺されるかのひと晩を、ついに一睡もせず任務を全うした。
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この時の経験が自分のひとつの壁を破った。俺はあの辛さを命がけで克服したという経験が自信になり、どんな辛い事でも、あの時のことに比べたら・・・という気持ちが常にある。
敗戦後、復員して夜行列車に乗った。スシ詰めの満員で立ちっぱなし、乗っている人たちの如何にも辛そうな態度が何か不思議に思えた、見栄や意地ではない、本当にあの「歩哨」のときのことを考えたら、何の苦痛も感ぜず,平気でむしろまだおつりが来そうな気がした。
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K・Yさんの話.
本来稽古というものは、 ”俺にはこれ以上出来ない” ”もう駄目だ” ”心臓が止まりそうだ” ”足が動かない”ーーーというところから始まるものだと思う。そこのところの壁を少しずつ破っていくのが稽古というものじゃないか。
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ところが、最近の新人は ”今日は頭が痛い”とか ”肉離れしたから”とか、実に簡単にすんなりと事前に降りてしまう。決してそれが仮病だとか、そんなことを言っているのではない。しかし、俺は、稽古というものはどうしてもそんなものだとは思えない。
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T・Iさんの話
俺は好きでラグビー部に入った。真夏の太陽の照りつける下で汗と泥にまみれ、監督にどなられ、蹴飛ばされながらスクラムを組んで押し合う。力が均衡状態になると、お互いに全力で押し合っているのに、スクラムが動かずじっと静止することがある。しばらくそうしていると、何の音も聞こえなくなり、自分の顔を伝わった汗がポタリと乾いた地面に落ちる、土の中にスーッと消える。また落ちるーーー。じーっとそれを見ているうちに、ふと疑問が脳裏をかすめるーーー俺は何故こんなことをしているんだろう?。しなければならないんだろう?。
そうして四年間、キャプテンになった今,未だにその疑問は解けない。
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S・Hさんの話
昔の軍隊では、行軍でへばって、”もう一歩も歩けない”といった時点から、実際にはもう二㎞は歩ける。といわれたものだ。
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K・Sさんの話
私は、戦時中衛生兵でした。ある時、敵の砲弾で,五~六十人が一度に吹き飛ばされた、そここゝから ”衛生兵!・衛生兵!”と私を求める声。修羅場とは本当にあのことを言うんでしょう。その時のことです。私は未だに信じられないんですが、ある兵隊が足をやられ,膝から下の肉が飛んでしまって、白い骨だけになっているんです。常識では考えられないんですが、其の兵隊が弾薬箱を抱えて歩いていったんです。・・・これは人から聞いた話じゃなく、自分のこの目で見た事なんですから信じざるを得ません。人間ってのは、信じられないことでも出来るんですねえ。
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人間は、それぞれ自分で自分の壁を作っている。あるいは勝手に自分で暗示をかけているのかもしれない。あるいは逆に,自分の壁がどこにあるのかも経験しないで、もっとずっと手前のところをうろうろしているのかもしれない。