渡 世 (90)
ときに、しもたやを改造したような低い軒の薄暗い土間に、駄菓子やおもちゃなどを並べて売っている店をみかける。お祭りでは、屋台を並べてお面や風車、金魚すくい、たこやきなどなど・・・。
一方はうらびれ、一方は雑踏と共に華やかではあるが、いずれにしても単価で言えば幾らでもないものを売って生計をたてている人達がある。その一軒分が全部売れたとしても、仕入原価を引けば幾らにもならないと思うのだがーーー。
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富山で、全国ただ一つと言う珍しいお祭りを見る機会があった。
「全国ちんどん祭り」・・・なぜそれが富山で行われるのかは知らないが、とにかく日本中から、ホントに我こそは・・・と思うチンドン屋が続々と集まってきて、町中を練り歩いた後、富山城の中庭で「日本一」を競い合うのだから壮観この上もない。
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本人達は、厚い化粧を塗り、カツラをかぶり、それぞれに人目をひくアイディアを工夫して、愛嬌をふりまきながら千鳥足で歩いていく。(ついでながら、あの旗持ちは、歩き方が難しいのだという。腰を落として首を真っ直ぐにしないと旗が倒れる。三歩進んで二歩下がる。しかもそれを千鳥に歩かなければならない)。
そうやって必死で吹くクラリネットの先からつばきがポトポトと落ちているのを見たとき、なぜか急に「おもしろうて やがてかなしき 鵜舟かな」という句を思い出した。
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人間生きていくという事、そのたつき、なりわい、世すぎ、渡世・・・をどうやっていくかということは、人それぞれの生き方で、他人の容喙することではないが、やはり何かを考えさせられるのはどうしようもない。
日 本 人
外国では物を詰めるのにトランクを使い、日本人は風呂敷を使う。トランクは自分の型をくずさないで入れるものを自分に合わさせるが、風呂敷は自分にこだわらず相手の方に合わせる。大きなものを包むときは、中味が少々出ていても、結び目さえ届けばそれでOK。一方小さなものを包むときには、回りが二重になってもシワになっても構わず中味にフィットする。一升瓶だって西瓜だって包める。
日本の庭園では、低きに流れる水に逆らわず自然に流してこれを愛でるが、外国では、これを上に吹き上げて噴水にする。
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ノーベル賞受賞式での川端康成さんの記念講演。題は「美しい日本の私」。
この題が我々にはすんなり受け入れられるが、外国人だったらこの場合「美しい日本と私」という題になるそうで、ーーー日本の私ーーーという日本の中に自分を包みこむ発想ができない。あくまで、ーーー日本アンド私ーーーで、 ”日本”と ”私”は離れ離れに対比した発想しか出来ないのだそうだ。
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終戦直後、日本に進駐してきたアメちゃんが、接収した日本の家の庭にあった石灯籠の苔をそぎ落と,し、ペンキを塗ったという話があったけれども、やはり日本人と外国人は根本のところで何かが違うらしい。
顔
先日TVで、かっての少年戦車兵の日常生活を記録したフィルムを見た。
当然、白・黒フィルムだが、まさに紅顔可憐の少年達の群像である。顔立ちの造作云々の次元を超えた凛々しい顔・顔・・・。どの顔も目もと口もとがきりりと引き締まっていて、神々しくさへ見えてきて、久し振りに心を打たれた。
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少年兵といえば、当時の十四~五歳の志願兵。現在の中学二~三年生の年頃である。目的の如何を問わず,絶えて久しくこのような使命感に燃えた一途な顔にお目にかからないな。