聴 く (92)
”いのちの電話”というのがあるそうだ。相談相手のいない孤独な人のための善意運動のひとつだが、数台の電話を前に担当の人達が、どこの誰から、何と言ってかかってくるか判らない電話を待つ。
そんなところに電話を掛けてくる人があるの?、・・・などと思うなかれ、何と一日に七十~一00本の電話がかかってくるという。
話の内容は様々だが,一番深刻なのは「死にたい」という訴え。
しかし、この「死にたい」という言葉には、逆に「生きたい」という叫びが含まれているんだ、というチーフの話が印象に残った。
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成る程、死にたいと思う人が、本当に死にたければ、そんな電話なんかかける前に死んでしまうだろ。ダイヤルを回して ”死にたい”と語りかけてくる人は「本当は ”生きたい”と叫んでいるんだ」と思い込むことをとっかかりに、真剣に話を聴いて、誠心誠意相談に乗ってやることから事態が好転していくのだという。そうして一つの命が救われていく。
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長崎の平戸と言うところは、今もかってのかくれキリシタンの信者が多いところだそうだが、隠れなくてもいい現代でも何故隠れていた当時のしきたりに沿った集会を持ちお祈りを捧げるのか。-・・・何が彼らをそのような熱烈な信者に仕立て上げたのか。
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後は土筆生の想像だが、当時と言うか、それまで中央政権から全く存在を問われず、神道からも仏教からも見放されていた、というよりも、初手から誰にも相手にもされていなかった離れ小島のこれらの人達に、初めて外から語りかけてくれたのが、漂着した青い目の神父さん達だったのではないか。初めは言葉も判らなかっただろう。たどたどしい言葉だったろうが、問題は言葉ではなかった。永い間だれも相手にしてくれなかった自分達に、誠を持って語りかけ、話を聴いてくれた外人に、人々は神を感じ神を見た。そして強烈な弾圧にもめげず、子孫の血液まで変えるほどの信者になっていったのでは・・・。
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人に関心をもつこと、誠をもって聴くこと、語りかけることが人の命を救い,血を変えることかくの如し。
眠 る
幸せなことに、土筆生は、食べものに全く好き嫌いがない。何でも食べられるという事と、いつでもどこでも眠ることが出来る、というと何だ乞食と同じじゃないか、と言われそうだが、育ち盛りを戦中・戦後、食うや食わずの混乱期に生きてきたお陰なのだろう。
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眠るのも、通常いつもバタンキュウで、床に入って五分と起きていたことがない。誰かが ”人間の幸せ度は、夜中に何かで目があいた時、ちょっと寝返りか何かうって、又すやすやと眠れるかどうかで計れる”と言っていたが、そのデンでいくと、土筆生の幸せ度は満点に近いということか。
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とは言っても、土筆生もやはり人並みに何かの拍子で寝付けないことや,時に夜中にポッカリ目があいて、次々にいろんなことが頭の中を去来して、ますます冴えてくるということもある。
そんな時どうしたらいゝか。”眠られぬ夜のために”・・・秘伝を伝授しよう。
まず、百から逆に九十九、九十八・九十七・・と呼吸に合わせて数を数える。ヒャー(吸う)ク(吐く)・・・という調子でゼロまで来てしまったら、あわてず又百から繰り返す。(大抵ゼロまではもたないと思うが・・・)。
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これを何回やってみても駄目なら、そこでテンテンハンソクして、大きなため息などついたりしないで、まあいいや、人間体を休める方法の中で、眠る、以外では、こうして静かに横になっている以上の方法はないんだ。こうやって、静寂の中で静かに体を休めながら、何かを考える機会を与えてくれた天の配剤に感謝しながら諦めること。
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人間、本当に眠くなれば砲煙弾雨の下、塹壕の中でも、ここで眠ったら死んでしまうと判っている雪の中でも眠ってしまう。今眠れないのは、本当は眠らなくてもいいからなんだ、と寝っころがって座禅でも組んでる心境で諦めて、お腹の上に手を組んで、アリガターく瞑目するーーー。
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それでも眠れなかったら・・・?。シャーない、ごそごそおきだしてウイスキーでもあおりますか。
(77・S・52・5)