哀 し き 酒
十月ーーー秋である。日本語では、「人」を「思う」と書いて「偲ぶ」と読ませる。「秋」と言う字に「心」をつけて「愁い」と読ませる、などと妙にしんみりしないで、秋といえば「酒」・・・。
久しぶりに有名人の言葉を借りて「哀しき酒」といきますか。
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(ひそむ秋)
先ずは昭和の詩人、堀口大学。
「酒の中にも秋はひそんでいる。夏の間はビールで誤魔化していたものの、すでにあの紙よりも薄い小さな盃のみが、私の手にふさわしくなるのである。久しく忘れられていた酒の味が新しく甦る。この酒の味に接して、初めて私は秋を新しい季節として感じるのである」。
(ーーーどうです、 ”酒の中に秋がひそむ”なんざ、やっぱりそこらの呑み助とは表現が違いますなあ)。
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(彼 岸)
「ーーー(略)つい近年までは、先輩諸氏のそういう随筆や偶感の類を対岸の火事だと思って読んでいたのにと思い合わせると、窓際の陽射しは正午を少し回ったくらいなのに、何やら身辺にわかに枯れて、乾いて、たそがれがたちこめてきそうである。何時の間にやら川をひとつ越えてしまったらしく、彼岸ではなくて此岸に小生は佇んでいる。もう秋か)。
(ーーーと書いた開口健。飲んで食って世界中を飛び回っていたのに、あっけなく彼岸に逝ってしまった。享年五十八。ー合掌。)
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(あ ら 塩)
幸田露伴は「客が見えたら、”まず冷酒をコップに一杯、粗塩とともに出せ。そして足袋はだしで庭におりて、季節のものをつまんで出せ”と言っていた」。と娘・文さんの随筆にある。
(彼も相当な呑み助だったのだろう。”粗塩”、”足袋はだしで”・・・というところに、如何にも気短な酒飲みの感じが出ている)。
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(虫 の 息)
次は、将棋の内藤国雄九段。
「飲み過ぎた朝は、寒い冬は特に寒く、夏の暑い日は格別に暑く感じる。二日酔いの撃退法として、ぬるま湯につかるとか,、軽い散歩をというようなことが言われているが、そういうことが出来る状態なら問題はないのである。本物の二日酔いというのは、息を吸って吐くだけで精一杯、スルメのようにのびたまま、ただ時が経つのを待つのみである。虫の息の中で、飲んでいるときは楽しかった(筈な)のだから、人生足して二で割ればこんなもんだ、仕方がないんだ、と私は自分に言い聞かせるのであるが・・・」。
(武士は相身たがい ”こんなもんだ、仕方がないんだ”・・・ウン、わかるわかる)。
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(日 本 酒)
ヘレン・ウエップという女性記者が、”酒”について
「国賓を招待しての宮中晩餐会に、皇后陛下は何故和服をお召しにならないのか、料理もフランス料理、何故和食にしないのか。それに出されるワインは ”何年のどこどこ産”と銘柄が発表されるのに、日本酒は何故ただ”日本酒”なのか?。そうであれば、ワインも ”白ぶどう酒・赤ぶどう種”とだけにすべきである。酒の具体的な銘柄をあげるのが憚られるのであれば、 ”新潟産・純米種”とか ”どこどこの吟醸酒”とかだけでもいいじゃないか」と書いていた。
(雲の上の、いとやんごとなきお方々のパーティのこと、ワレラ赤提灯組には縁のないことではあるが ”ホントニネ”と思うな)。
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(酒 道)
次は、夏目漱石の ”酒つれづれ”から・・・。
{ーーーそこで考えさせられるのは、酒の飲み方ということになる。乳の飲み方は生まれながらに知っていたくせに、酒の飲み方は脳溢血で斃れるまで知らずにしまった友もある。(略)茶を喫むのに茶道があり、飯を食べるにも度があるように、酒にも酒道というほどな定規を置かなくても、心構えくらいは各々持つべきであると思う」。
(ちょっとお堅すぎますかな?。それのしても少々耳が痛いですな。ご同役)。
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(健 康 管 理)
多言を弄せず,重点七ケ条を・・・。
「・・・少塩・多酢。少糖・多果。少肉・多菜。少食・多噛。少衣・多眠。少憤・多笑。一日・八千歩」。
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お口直しに一句。
焼き鳥の 串に上司を 刺して飲み。
(90・H・2・10)