あ ゝ 甲 子 園
「日本人はギャーが入ると一つの方向に素晴らしい決意をもって突き進むことができる。だが何かの理由でギャーを入れ替えるとまたその方向に同じような決意を持って突き進む」。(上智大学グレゴリー・クラーク教授)
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八月は高校野球・・・甲子園の月である。あの日中戦争・太平洋戦争の例をとるまでまでもなく万博・オリンピック・ポートピア・・・何によらず日本人は、お盆に乗せたマメのように、何か事が起こるとその傾き加減で右へ左へ一斉にザーと集まる国民性だというけれど、ホントにたかが野球で,何故に日本中がこうも甲子園一色に沸き返るのだろう。
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まあ、ラジオもTVも右も左も新聞も週刊誌も、海も山も町も、あらゆるものが甲子園・甲子園・・・。そしてそれらのあらゆる媒体が伝える報道のボリュームもさることながら、その内容の詳細なこと。
スポーツ紙ならぬ一般の大新聞までが、地元校が二回戦へでも進もうものならその地方版は大変。・・・まるで第三次世界大戦が始まったかと驚かされるばかりの大見出しに、投手の心理からバッターとの駆け引き、監督のヨミ采配ぶりは云うに及ばず,昨日の夕食のオカズの内容までーーー何ともご丁寧なことである。
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”母校負け 女房の里を応援し”という川柳があったが、あの応援にかけるエネルギーのすさまじさ、ある学校ではバス二0台を連ねて甲子園へ駆けつけた。それだけの費用で二、二00万円かかったという。これらの応援が自分の出身校のためならまだ判る。、しかしナニユエに同郷であるが故に、自分の生まれた地方であるが故に、それが負けると女房の里まで範囲を広げて応援するのか。
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もしそれが、本当に応援の功績でその学校が勝ったところで、それでどうだと言うのだ。勝ったのはそのチームのメンバーであってベスト8の、或いはベスト4の、日本一の、栄冠に輝いたとしても、応援団の個々人にとって何ほどのことがあるというのだろう。自分が応援したチームが勝ったことを誰に対して誇ろうと言うのか、何故に単なる自己満足のために、ああも熱狂できるのか?。
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ところで、ちょうど時を同じくして、八月十五日は敗戦記念日。毎年靖国神社の参拝がどうの、日本人の愛国心がこうの・・・と、甲子園の熱狂振りを伝えるその同じ新聞紙上で蒸し返される論議がある。
しかし、何も案ずることはない。この甲子園のフィーバーを見ていると、誰に頼まれるでもなく、同窓・同郷・同地方の言ってみれば、たかが野球の勝敗のためにあれだけの情熱を傾けられる日本人。
負けまい・勝たせたい、と経済的負担も、肉体的エネルギーの損耗も、時間的ロスも省みず、炎天下にカチワリ氷を頭に載せて声援を送るさまをみていると、これらを包含したその延長線上に、もしや日本が外国から攻められて日本が負けそうーということになったときの姿が彷彿としてくる。
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何も心配することはない、クラーク教授の指摘するように、日本人は放っておいても忽ちまとまって、一億一心。”進め一億火の玉だ””欲しがりません勝つまでは””足らぬ足らぬは工夫が足らぬ”・・・と唱えながら、最後の一人まで地下組織のゲリラになってでも、猛烈な勢いで同じ方向に進みだすに違いないのだから。
(82・S・57・8)