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悲しき酒(片々草抜粋)

 

 

 

 

 

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02-Jan-2013

聞  く  

 友人の一周忌法要。浄土真宗・・・。
 読経が済んだ後、坊さんから「折角皆さんお集まりの機会だから、十分ほど私の話を聞いて貰いたい」。と前置きして、こんな話を聞いた。思い出すまま断片的に書いておく。

「最近、仏事がだんだん派手な傾向に流れていくのは嘆かわしいことです。葬儀屋の商売主義にもよるのでしょうが、告別式というと門前に急ごしらえの庭をこしらえて、水を流したり、仏前に真赤な花を供えたりする」。

「故人に対する弔意も、本来相手の死を悼み悲しむ・・・(謹んで哀悼の意を表します)だけでいい筈です。亡くなった方に対し、この世に残っているものとして、(あなたが亡くなってしまって悲しいです)以外に言うことはない筈でしょう。
 それを(ご冥福を祈る)だの、(安らかに眠ってください)だの、(霊を慰める)だの、これでは、まるで(迷わず成仏してくれ)といわんばかりではありませんか。生きている者が亡くなった方に、そんなことを言うのはおこがましい話です」。

「亡くなった方の心を推しはかってみると、(仏教ではこの推しはかる心を
 ”聞く”とというのですが、)、残った家族よ、友人よどうか幸せであってください、というただ一つの思いに凝縮されているはずです。この気持ちに応える生きている者の心は、ただ”あなたが亡くなってしまって悲しいです”の一言しかないのではないでしょうか」。

「先ほど、相手の気持ちを推し量ることを ”聞く”といいましたが、仏教の教えの根本に、この ”聞く”と言うことがあります。死者の心を聞くのです。”如是我聞”というのは、 ”かくの如く、我聞く”という意味です。

「”見る”というのは、自分を中心にした能動の心で、 ”聞く”というのは、相手を中心にした受動なのです。例えば、目をつぶれば物は見えなくなるでしょう、自分が中心だからです。ところが、目をつぶっても ”聞く”ことは出来る。それは相手を中心にしているからです」。

「日本語では、香をかぐとは言わないで ”香をきく”という。”味をきく”とも言うでしょう。相手の中に隠されているものを引き出して感じ取ろうという気持ち。これが仏教でいう相手中心の世界ーーー”聞く”という教えなのです」。

「大分話が長くなりました。 ”聞く”とということについての逸話をお話して終わりましょう。

 昔、ある高僧がお風呂に入ろうとしたら 熱い。そこで弟子の小坊主に
、”水をくれ”といいました。弟子は手桶に溜まっていた水を捨て、新しい水を汲んで差し出したところ ”馬鹿者!“と怒鳴られた。小坊主はなぜ叱られたのかその理由が分かりません。そこで ”何故ですか?”と聞き返したらその高僧の曰く ”何?!。何故ですか?。水に聞け!”と云われておしまい。
 小坊主は ”水に聞け・・・物言わぬ水に聞け”・・・を必死になって考えた。そして後に悟りを開き、自ら ”聞水”と号したそうです。仏の教えの根本は、自らを空しくし、相手を中心にした世界なのです」。

「富山のある百姓さんがどういう訳か、同じようなところで同じように作ってるいるのに、毎年他の百姓の二倍近い収穫をあげる。そこで、他の百姓さんが極意を尋ねた。するとその百姓さんはこう言ったそうです。”わしゃー、毎朝畠に来て作物の叱言を聞いてるだけじゃ”」。

         小 集 団(活 動)

 天正十年六月二日、明智光秀が一万余騎を率いて、突如京都四条坊門、西洞院油小路に織田信長を襲った。・・・ご存知、”テキは本能寺”の変である。

 この時、豊臣秀吉の軍勢は信長の命を受けて備中(岡山)で毛利勢と対峙していた。 ”信長憤死す”の報せを聞いた秀吉は、信長が死んだことは伏せたままで、急遽条件を下げて毛利と和議を結び、二○○㎞離れた山崎(京都)へ疾風の速さで戻って光秀を討った。

 この時の秀吉軍の移動の速さを逆算すると、一日四十㎞の行軍になるという。近代装備の旧陸軍の強行軍でも一日の行程は三十二㎞と定められていたそうだし、ましてや雨季、道路も交通手段も発達していなかった時代に、二万人の大軍の移動である。どうしてそんな離れ業が可能となったのか。

 そこで秀吉が考え出した作戦が、今はやりの小集団・グループ化であったという。二万人を一度に動かしたのでは、二万人が一度に同じ行動をとる訳だから、食事の準備だって大仕事、休むのも寝るのも二万人が一緒と言うことになる。それでは、いろんなところに無駄と無理が出てしまう。

 そこで、彼は二万人を五百人ずつ四十の小集団・グループに分割し、これを順繰りに山崎に向けて走らせた。そうすれば、例えば食事を作る方も、常時流れ作業で五○○人単位で作っていればいいわけで極めて能率的である。こうして川の流れのように二万人の大軍を五日間で二○○㎞移動させるのに成功したのだと言う。

 小集団化の知恵、やってしまえばコロンブスの卵、切羽詰った必要が産んだアイディアと言ってしまえばそれまでだが、やはり今までの常識を破った考え方がひらめくところが,並みの指導者ではなかったといえようか。

(84・S・59・7)