ケ・セ ラ・セ ラ
大分昔のことだが ”ケ・セラ・セラ”という歌が流行ったことがある。何語か知らないが ”なるようになるさ”という意味らしい。逆に言えば”なるようにしかならないさ”ということか。
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有名なマーガレットミッチエルの「風とともに去りぬ」の最後の一節は「Tomorow is anotherdays]という言葉で終わっている。「明日は明日の日が照る」と訳してあるが、俗っぽく言えば「明日は明日の風が吹くさ」・ということだろう。
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先日、有名なMという老俳優がインタビューに答えて「明日また生まれて、そして、昨日の米がいくばくか残っていれば、それが幸せというものだーーー」と言っていた。ちょっとキザといえばキザだが「明日また目が覚めて・・・」といわず「また生まれて・・・」といったところが、”あらためて、また生きていこう”という感じが会って印象に残っている。
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言ってみれば、人間誰しも明日のことは判らない。人間の最後はとどのつまりは、眠ってそのまま目が覚めない、ということだろう。そういう意味では、日々新しく生まれて、その上に前日の蓄えが少々残っていてくれれば、それが取りあえずの ”幸せ”ということではないか。
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明日以降のことはどうなるか誰にも判らない。昔から来年のことを言えば鬼が笑うというけれども、先ざきのことをあくせく考え悩んで、そのことだけで、その日その日の幸せを逃しているとすれば・・・勿体ない話ではないか。
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昨日また かくてありけり
今日もまた かくてありなむ
この命 なにをあくせく
明日をのみ 思いわずらう
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高僧、一休禅師が亡くなる時、”寺に困ったことが起きたときには、この書を開け”と言われた。いよいよ寺に危急存亡のことがおこり、その遺言書を開いてみたら「なるようになる、心配するな」と書いてあったという。
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「明日のことを思い患うな。
明日は明日みずから思い患わん。
一日の労苦は一日で足れり」
(新約聖書)
投げたようではあるけれども、取り敢えず自分の立っている「今」を見つめて、かけがえのないその日を大事に過すべきではないか。
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唐の詩人、李白の詩は美しく、こう詠っている。
「我を捨てて去るものは、昨日の日にして留むべからず。
わが心を乱る者は、今日の日にして煩憂多し。
長風万里、秋雁を送る。此に対し以って高楼に酣なるべし」。
(昨日という日は、俺を捨て去ってしまいもう戻っては来ない。今日という
日は、俺の心をかき乱す煩わしさばかりが多い。万里の向こうから吹き寄せ
る風が秋の雁を送ってきた。人生もまた風まかせじゃないか。高殿に登って
盃でも交わそうよ)。
(中 略)
「刀を抜いて水を断てば、水さらに流れ、
盃を挙げて愁いを消せば、愁いさらに愁う。
人生,世に在りて意にかなわざれば、
明朝、髪を散じて扁舟弄せん」
(刀で水を断ち切っても、水の流れは止まらない。酒で愁いを消そうとして
も愁いは止まらない。人生、思うようにならぬとあれば、明日の朝は冠を
捨てて小舟で湖でもさまよおうか)。
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さて、余白がなくなってきた。締めくくりはスタンダールのパルムの僧院からー。
「人の世は短い。与えられた幸福をとやかく言うな。急いで楽しめ」。
(84・S・59・12)