手 紙 (男・女)
「方々から手紙などが山の如く来ますが、私はたった一人の千代子の手紙ばかりを朝・夕恋しく待っております。写真はまだでせうか・・・」
高校生の恋文ではない。唱和十六年十二月二十八日,帝国海軍・連合艦隊司令長官・海軍大将・山本五十六が新橋の芸者、河合千代子に宛てた,旗艦・長門からの手紙の一節である。
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唱和十六年十二月八日、太平洋戦争ぼっ発。山本五十六率いる大日本帝国海軍連合艦隊は、緒戦で海・空呼応して怒涛の進撃を開始,嚇々たる戦果を挙げた。
この開戦の日、山本は
「此の度は、大詔を奉じて堂々の出陣なれば、生死共に超然たることは難からざるべし。ただ此の戦いは未曾有の大戦にして、いろいろ曲折もあるべく、名を惜しみ己を潔くせむ私心ありては、とてもこの大任は成し遂げ得まじとよくよく覚悟せり、されば
大君の御盾と ただに思ふ身は
名をも命も 惜しまざらなん」
という遺書をしたため、自分の死後開くようにと言いおいてあった金庫に蔵していた。考えてみればこの手紙は、それから僅か二十日後の手紙である。
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「三十日と元日の手紙ありがとふございました。三十日のは一丈あるよふに書いてあったから、正確に計ってみたら、九尺二寸三分しかなかった。あと七寸七分だけ書き足してもらふつもりでおったところ、元日のが来てとても嬉しかった」。
・・・これは、それから十日、開戦翌年一月八日の手紙。巻紙で三メートル書いたという手紙を、物指で正確に計ってみたら二十三センチばかり足りない。催促しようと思っていたら次の手紙が追っかけて届いて嬉しかった。というのである。
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その年五月十三日に、千代子さんは肋膜の身をおして、呉まで山本に会いに行った。
五月二十七日、海軍記念日の手紙・・・。
「ーーーあの体で、精魂を傾けて会ひにきてくれた千代子の帰る思ひはどんなだったか。私の厄をみな引き受けて戦ってくれている千代子に対しても、私は国家のため最後のご奉公に精魂を傾けます。その上はーーー万事を放擲して世の中から逃れて、たった二人きりになりたいと思ひます」。
「二十九日には、こちらも早朝出撃して三週間ばかり洋上で全軍を指揮します。多分あまり面白いことはないと思ひますが、今日は記念日だから、これからが峠だよ。アパくれぐれもお大事にね。
うつし絵に 口づけしつつ 幾たびか
千代子と呼びて けふも暮らしつ」
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唱和十七年九月末。
「聖戦以来幾万の 忠勇無双の将兵は
命を的に奮戦し 護国の神となりましぬ
ああ我何の面目か ありて見えむ大君に
はたまた逝きし戦友の 父兄に告げむ言葉なし
身は鉄石に非ずとも 堅き心の一徹に
敵陣深く切り込みて 日本男児の血をみせむ
いざまてしばし若人ら 死出の名残の一戦を
華々しくも戦ひて やがて後追ふ 我なるぞ
ーーー戦後、旗艦大和の長官私室の引出しから
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唱和十八年四月二日
(略)
おほろかに 吾し思はば かくばかり
妹が夢のみ 夜ごとに見むや
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・・・山本五十六。
唱和十八年四月十八日。北部ソロモン戦線視察中、ブーゲンビル島上空において、搭乗機撃墜され戦死。享年五十九。