終 戦 の 頃
八月十五日。また終戦記念日がやってきた。
父が亡くなったのが、その年の八月九日十四歳だった。父は終戦の一週間前、原子爆弾の中心地で、一瞬にこの世から消えてしまった。
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当時の少年のほとんどがそうであったように、もの心ついてから、満州事変・支那事変・太平洋戦争ーーーと 、ずっと戦争の真っ只中、”欲シガリマセン勝ツマデハーーー”。すべてをお国のために、の軍国少年で、いずれ、飛行機か戦車に乗って勇ましくテキをやっつけることばかりを考えていた。
それが、ある日突然父を亡くして、悲しむ間もなく敗戦。目の前から目標がなくなってしまった。
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世の中がどうなっているのか、どうなっていくのか判らないまま、兄や先輩達の勧めで、進学のため日本の西の果てからポッと東京へ出た。米よこせデモやメーデー騒乱事件の頃、食糧難の時代に東京で独り食い盛りの玄人下宿である。
それでも、何とか父の残したもので細々ながら、仕送りがつながっているうちはよかったが、そのうちポツリポツリと仕送りが途絶えるようになった。
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水源地の水が枯れたのでは蛇口から水は出ない。二階に上がって梯子がなくなったようなもの。上京する前に軍隊帰りの兄が、親に代わって学校だけは出させてやると太鼓判は押したものの、あの配線の混乱の中で、残りの親子五人を食べさせながらの苦しさが痛いほど判る。
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最初の下宿は食事つきだったが、何故か当時は主食の配給に砂糖が配られ、下宿では「ハイ、これが今日の食事」と弁当箱にその砂糖が入っていたりした。外食券食堂というのがあって、主食は券と引き換え、茶碗に盛ったご飯の重さを計り、多いと容赦なく目の前でけずられた。一品ずつミソ汁幾ら、イワシがナンボという生活だった。
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たまに運動部の先輩が稽古の帰りにラーメンをおごってくれ、”お前は、汁をひと口吸うごとに大きな息をついて、実にうまそうに食うのでおごり甲斐があるよ”と言われ、ハッと我に返ったりした。池袋のよしず張りのラーメンやの二階。一杯二十五円だった。
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そんな生活で、学校はともかく先ずは食べねばならぬ.ご多聞に洩れずアルバイト。洋品店の売り子、楽な割りには実収の多かった夜の倉庫番などなど・・・。そのうち使う時間と実益を考えて家庭教師(条件は食事つき!)。一日二~三時間で、これをふた口。月・水・金ー火・木・土と割り振って結構食いつなげた。ときに栄養をとりなさいと、おばさんが牛乳の中に卵の黄味を落としてくれたりしたのが今でも忘れられない。
結局わが青春は、不思議に貧乏とかみじめとかいう意識はなかったが、毎日どうやって食べようか、だけの時代だったような気がする。
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昭和ヒトケタは、育ち盛りにまともなものを食べていないからーーーといろんなことを言われるけど、実際考えてみれば、終戦の前後十年くらいは、まともな料理と名のつくものを食べた記憶がない。時にどこかで真っ白なご飯にありつけた「ギンメシ」の輝きだけが強烈な印象として残っているだけである。。
その代わりといっては何だが,お陰様で食べ物に好き嫌いは全くない。(カボチャとジャガイモは少し軽蔑するが)。・・・それから、食べ物に箸をつけたら、それを少しずつ残すことが出来ないという癖が未だに残っている。
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そんな貧乏学生が、日石に入って晴れて一本立ち、独身寮の食堂で、ビールでも卵でも、自分のケイザイで好きなように食べられるようになった時は、将に王侯貴族の気分だった。
その寮で、出されたトンカツの脂身の部分を初めから切り離して残す仲間を、不思議な目で眺めたものだった。
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そして今、かっての王侯貴族はどこへ行ったのだろう。そしてあの頃と今と、どちらが幸せなんだろう。
(87・S・62・9)