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悲しき酒(片々草抜粋)

 

 

 

 

 

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02-Jan-2013

悩  み

 英語のことはよく分からないが、英会話にはトイレに行きたくて席を外す時など ”ちょっと小便に・・・”などと無粋なことを言わないで ”ネイチャー コールズ ミー・・・(自然が私を呼んでいる)”という言い方があるそうな。

 ところで、飲みすぎた翌日など、通勤電車の中で、この英会話風に言えば、突然ラージ ネイチャーに呼ばれることがある。スモール?なら何とか我慢もなるが、そういうときは大体において前の晩のご乱業の結果なのだから、お腹の中がゆるんでいて持ちこたえがきかないのが相場である。

 それでも、ここは電車の中。 ”顔で笑ってお腹で泣いて・・・”さりげない様子を装いながら次の駅を待つ。待ちに待ったホームに降り立っても、走り出すなんてもってのほか,焦るお腹を心でなだめ、お臍のあたりに力がかからないように・・頭の上に乗せたものが落ちないような、静かな重心の移動で目指すWCまで辿りつかねばならない。

 そして・・・千里の思いでたどり着いた目的地には、「嗚呼無情」既に先客。
その先客の何とも頼りなげな、締りの無いうつろに宙を見つめた情けない顔。
 だが、この際同病相憐れむなどと悠長なことは言っておられない。あの顔つきでは相手も相当な重症・・・。もし、目の前のドアが開いても ”すみません。頼みます、拝みます、私を先に・・・”などといえる状況ではない。

 ああ、それなのに人間の体の何とよく出来ていることか。永年の躾の条件反射、こういう場所に来ればその場に応じて,意思に関係なく体の方がそのつもりになって、自然にその場所の目的に反応するようになっている。
 ・・・ OH! HELP!.
 あっ、ドアが開いた。先客が今天国に行った。次はオレ!。

 やがて、目的のドアの中で、地の底から湧き出るような轟音、ああ待ちに待ったその音!。すべてこの世の悩み・苦しみ・不浄を洗い流し給い、人類に福音をもたらすこのオト。OH! GOD。

 さて、身も心も軽くなり、ついさっきまで、世の中のすべての苦悩を一身に背負ったキリストみたいな顔をしていた男が、とたんに普通のおじさんに戻って、何食わぬ顔で再び車中の人・・・。

 そこで考えた。
 さっきあの電車の中で、今自分の置かれているあらゆる状況を考えながら、どういう処置をとるべきか、悶々とひとり悩んで苦しんでいた。
 そんなことにお構いなしに、緊急事態はもうそこまで来ている。小さな振動一つひとつが無情に響く・・・今のところ必死に持ち堪えているけれど、若し今電車が急にガタンと大きく揺れたら・・・ああ、その時はもうだめ!「玉砕」するより仕方がない。それこそウンを天にまかせて・・・。

 考えてみれば、そんな切羽詰った俺の悩み・苦しみを誰も分からなかったように、今ここに乗っている乗客の夫々にどんな悩み・苦しみがあるのか、外からは分からない。
 しかし逆に考えれば、普通の顔をしてさりげない様子のこの人たちのすべてに、必ず何等かの悩み・気がかりがある筈である。
 そして、それらを夫々が黙って解決して行っている。

 こう考えているうちに、「生きていると言うことは、誰にも必ず何らかの悩みがあるということ、俺だけじゃない、俺だけが苦しいんじゃない、世の中全ての人が何らかの悩みを持っているんだ」ということに思い至った。 
 そしたら、何か急に回りが明るくなって、生きていくのが楽になった。

(88・S・63・9)