あの頃のこと(続・原爆忌)
九月号の「原爆忌」が、思いがけない反響を呼んで、沢山の方々から励ましの言葉を頂いた。・・・今しばらく誌面をお借りして「あの頃のこと」を書き留めておきたい。
*
八月九日、原爆の日。
あの日 朝、検診中止で不承不承戻ってきた三菱病院は,家から私電で四~五十分もかかる浦上にあった。原子爆弾はこの浦上の上空五百メートルのところで炸裂した。。
午前十一時0二分・・・。ピカッと閃光一閃!。世の中が真っ暗になった。その瞬間に、全てのことが起こったのだった。
*
それから毎日、どこからか帰ってくる筈の父を待ちながらも、日に日に明らかになっていく想像以上の惨禍に ”もしや・・・?”が、”やはり父も・・・?”に変わり、四~五日経ったところで ”これでは、もう絶望・・・死んでるものならせめて骨だけでも”と父の会社を知ってる人に案内を頼んで現地へ出向いた。
*
もう延焼の火の手は収まっていたが、長崎駅のあたりで、丸ごとぱんぱんに膨らんで転がっている馬の屍体に驚いたのが手始めで、浦上の方、爆心地へ向かっていくほどに、片付けきれない死体が累々・・・。
子供を背負ったままの人、水のない防火用水に半身を突っ込んでいる人、川に向かって水を求めながら途中で果てた人達の折り重なった無数の屍体・・・。
それらの屍体に躓きそうになりながら、それでも、それらしいと思われるものは顔を覗いてみるが、どれも焼けただれていて表情が分かる筈もない。
*
”このあたりに会社があった筈 ”というところは、もう爆心地も真っ只中。有ったはずの死体も火葬になってしまったのだろう、もうそこらあたりは瓦礫だけを残す、見渡す限りのっぺらぼうの焼け野が原 ーーー。
その中の敷石の形から ”ここらが、多分会社の社屋の事務所付近・・・”といわれたところに、僅かに残っていた幾つかの骨のかたまり。せめてこれだけでもと拾っているうちに、黒焦げの腕時計が出てきた。その文字盤にかすかに読めるMidoという字。”ああ、これは親父がはめてた時計だ”とこれだけが、四十六年この世に生き父が、最後に我々に残したただひとつの証としなって・・・。
*
あの時、十四歳の幼い経験で、どうしようもない、人の「運命」ということを強烈に刻み込まれた。「人は生まれながらにして、すべて決まった星の下で生かされているのではないか・・・?」。
*
「閃光一閃!」。
その時、一時間前に自分がいた病院は、その瞬間瓦礫と化してしまっていた。あの時自分が生き残ったのは、後からいろんなことが分かってみると、ゾッとするほどの偶然の積み重ねによるものだった。何もそのことを自分で選んだのではない。いろんな運命の組み合わせが俺をそうしただけのことで、強いて言えば、父が家族みんなの運命を一身に背負って、身代わりになったとしか言いようがない。
*
あの時、学徒動員で何ケ所かの工場に分かれて勤務していた仲間も、非番で家に居たために亡くなった友、工場に居たために自分は助かったが家族が全滅した友、その時は何ともなかったのに、十日・ひと月・三ヶ月経ってからぼろぼろと死んでいった友・友・友・・・。
同級生二百九十七名の仲間だけ見ても、二百九十七のそれぞれに「与えられた運命」の明暗があった。
*
あれから四十余年、あの紅顔の少年達もそれぞれの運命のままに、とにかく生き残ってきた。ここまでこれた感謝の気持ちを故郷に持ち寄り、亡き友の「慰霊祭兼同窓会」をやろうということになった。全国から馳せ参じた友百四十名。その時、代表が読み上げた弔辞の締めくくりの一節・・・。
日の果てにして 偲ぶ草
たまゆら遠く 亡くせし友を
(89・H・元・10)